高木彬光 幽霊西へ行く 目 次  大《おお》 鴉《がらす》  幽霊《ゆうれい》西へ行く  公使館の幽霊《ゆうれい》  五つの連作——犯人当て小説——  クレタ島の花嫁《はなよめ》——贋作《がんさく》ヴァン・ダイン——  第三の解答  五つの連作解答編  大《おお》 鴉《がらす》     1  私がその海岸の、置き忘れられたような淋《さび》しい漁村に着いたのは、ちょうど灯《ひ》ともしごろだった。  久しぶりで訪《おとず》れた故郷の町では、私は思いがけないほどの歓迎《かんげい》を受けた。地方の小都邑《しようとゆう》のことであるから、探偵《たんてい》作家を出したことは初めてなので、講演会《こうえんかい》にひっぱり出されるやら、地方新聞に写真入りの談話が発表されるやら、思いがけない昔《むかし》の友人が訪《たず》ねてくるやら、元々内気の私は、すっかり困りぬいたのだった。  だが私は、一度でもこの村を訪れておきたかった。それで東京へ帰る途中《とちゆう》、N駅で途中下車し、閑散《かんさん》な私線に乗りかえて、二時間あまりの旅をつづけ、それからまた一日二往復というガタガタの木炭バスの客となって、この漁村に着いたのである。  私が前にこの地へ足を止めたのは、大学当時のことだったから、あれからは十年という年月が流れている。別に風景が優《すぐ》れているわけでもなく、これという名所もあるわけではないが、私はこの土地には、忘れることのできない、いくつかの思い出があった。  帰り来ぬ昔《むかし》の夢《ゆめ》を追うことの愚《おろ》かなことは、もちろん私もよく知っていた。だがこのような片《かた》田舎《いなか》では、時の力というものは、都会の場合ほどはげしくはない。家も同じ、人も同じ、人と人との関係も、十年一日のようなのが常であった。だから私の夢も思い出も、そのままの形で、ふたたび新たにすることができるのではあるまいかと、それははかない望みだったかも知れない。が……  その村に一軒《いつけん》しかない、荒《あ》れはてた木賃宿《きちんやど》のような旅館に旅装《りよそう》を解くと、私はすべてを明日《あす》のことにして、簡単な夕食をすませ、ぶらりと散歩に出たのだった。  このへん一帯は、太平洋の怒濤《どとう》に面した、荒涼《こうりよう》たる灰色の砂丘《さきゆう》であった。青《せい》松《しよう》白砂《はくしや》の南の海と違《ちが》って、海の色も、波の動きも、すべて鈍《にぶ》くて暗かった。  ただこの附近《ふきん》だけ、どうした地質学上の理由によるのか、薄《うす》紫《むらさき》色《いろ》の岩肌《いわはだ》を見せた、凝《ぎよう》灰岩《かいがん》質の岩山が、海岸に突《つ》き出している場所があった。私はしばらく海岸を歩いたあとで、その岩山へ上って行った。  急な坂道をのぼり切ると、そこは小さな神社になっている。落葉松《からまつ》の林にかこまれて、苔《こけ》むし朽《く》ちはてた一つの祠《ほこら》があった。  夕闇《ゆうやみ》が海をも村をも包んでいた。砂浜《すなはま》の上をはるかに点々として、チラチラと星座のように輝《かがや》く燈火《とうか》は、この海岸に沿って連なる村と町……私の宿をとった村の燈火も、五、六丁|隔《へだ》てた眼下に赤く光を放っていた。  額《ひたい》の汗《あせ》を拭《ふ》きながら、私はポケットから取り出した煙草《たばこ》に火をつけようとした。その時ガサガサと音を立てて、社《やしろ》の背後の繁《しげ》みから姿を現した一人の若い男があった。  ここは昔《むかし》から、そんなに人の来る場所ではなかった。ことに夕暮《ゆうぐ》れである。私もふいの人影《ひとかげ》に驚《おどろ》いたが、向こうでも、私の存在に驚いたのかも知れない。懐《かい》中《ちゆう》電燈《でんとう》をつきつけて、 「どなたです」  と、問いかけて来た。 「いや、別に怪《あや》しいもんじゃありません。その先の柏屋《かしわや》に泊《と》まっているものですが……」  と、私が答えると、 「もしや、あなたは木下晴夫先生ではありませんか」  と、私の名をズバリと言いあてて来た。 「ええ、そうです。よくお分かりですね」  私もいくらかびっくりしていた。 「私はこれで、先生の大の愛読者なんですよ。御作《おさく》は一つ残らず拝見していますし、ご郷里にご帰省中だということも、新聞で承知していました。こんな所へおいでになるとは思っていませんでしたが、いつか雑誌の口絵で見た写真にそっくりなので……いや、ふしぎなものですねえ」  なるほど、そう聞いて見れば、何もそれほどふしぎでもなかった。私としても、こうした寒村にまで、私の読者がいるということは、決して悪い気持ちはしない。私は相手に煙草《たばこ》をすすめて、火をつけてやった。 「恐《おそ》れ入ります」  と、大きく白い輪を吐《は》き出して、 「ご散歩ですか」 「ええ、ちょっと歩きたかったので……」 「実は先生、先生に一度聞いていただきたいお話があるのですが……これは先生のお書きになる材料になりはしないかと思いまして……よほど、書き上げて先生にお送りして見ようかと思ったのですが、私は筆に自信がありませんし、……この海岸で起こった事件なのですが、一つ聞いて下さい……」  例外もあるにせよ、実際の犯罪事件が、私たちの書いている探偵《たんてい》小説の材料になる、ということは滅多《めつた》にないことであった。話し手の方は面白がって話してくれるのだが、聞く私たちの方になって見れば、何の役にも立たないで、ただ退屈《たいくつ》を誘《さそ》うような、そんなことは度々だった。 「いったいそれはどんな事件なのですか」 「探偵《たんてい》小説には、ずいぶん『顔のない死体』というトリックが使われていますね。ところが、あのトリックに限っては、私は初めから、底が割れているような気がするのです。被害者《ひがいしや》と加害者の逆転、つまり殺されたと思われている人間は、本当に殺されたのではなく、身代わりの人間を殺して、自分が殺されたように見せかける。十中八、九はそれなのですが、あの原則に例外はないのでしょう」  鋭《するど》く専門的に急所を衝《つ》いた質問であった。私もこの言葉には、思わずギクリとして、闇《やみ》の中にほの白く浮《う》かんでいる、相手の顔を見つめたのだった。 「そうですね……しかしそれでない反対の場合だと、実際の事件ではともかくとして、探偵《たんてい》小説ではさっぱり面白くないのです。そのトリックが底を割っていることは承知の上で、肉をつけ、着物を着せて、うまく読者をひっぱって行く——それが作家の腕《うで》でしょうね」 「でも実際の事件では、いくら顔だけ潰《つぶ》して別の着物を着せたからといって、そんなに簡単に、だまされるもんじゃありませんよ。体にだって、ずいぶん特長はありますし、たとえば、歯だって、手にかけた歯医者が見れば、すぐわかりますからね」 「ごもっともですが、探偵小説というものは、フィクション中のフィクションでしてね。古人もこんなことをいっています。『万人を一時あざむくことは出来る。一人を永久にあざむくことは出来る。だが万人を永久にあざむくことは出来ない』万人を一時あざむくから、探偵小説ができるので、万人が永久にあざむかれるような事件が、もしあったとしても、それは探偵小説の材料にはならないでしょう」 「そうでしょうか」  何となく、思いつめたような声であった。 「先生、私の話を聞いてはいただけませんか。これは所謂《いわゆる》、探偵小説でいう『顔のない死体』の問題です。一応の解決はついていますが、この事件に限って、万人が永久にだまされているような気がするのです。先生ならば、この解決には疑問を起こされないでしょう」  何かしら、興味をそそるような話し方だったし、私はこの男の正体にも、はげしい好奇心《こうきしん》を感じ出して来ていた。どうせ宿へ帰っても、別に用事もあるわけではないし、しばらく海の新鮮《しんせん》な空気を吸っているのも、悪くはあるまいと思って、私は相手の話をうながした。その物語というのは、次のようなものである。     2  終戦後、間もなくのことですから、もう三年あまりになりましょう。この村から二里ほど離《はな》れた、野沢《のざわ》という小さな町に、一人の医者が復員して来ました。三、四年の軍医生活で、腕《うで》の方もいくらか荒《あら》くなっていたようですし、外地で乱暴な生活を送ったと見えて、性格もすっかりすさみ、出征《しゆつせい》前は盃《さかずき》いっぱいの酒さえ口にしなかったが、毎晩のように、自暴酒《やけざけ》を浴びるほど呑《の》むようになりました。  年は四十に近かったでしょう。だが不規則な生活のためでしょうか、顔の筋肉もすっかり弾力《だんりよく》を失って、黄色くひからび、六十にとどいた老人のような気がしました。しかし、柔道《じゆうどう》の方ではひとかどの腕前《うでまえ》だったようで、体力の方はそれほど衰《おとろ》えを見せてはいなかったようです。  その医師が殺されたのです。そして顔のない死体となって発見されたのです。  事件が起こったのは、十月二十四日、満月の夜のことなのです。この村から自転車で野沢町の方へ夜道を急いでいた、小林三郎という青年が、野沢町とこの村のちょうど真ん中にあたるあたりの林のかげで、一人の怪《あや》しい人影《ひとかげ》を発見したのです。  冬になると、このあたりは太平洋から、鋭《するど》く肌《はだ》を切るような、雪もよいの風が吹《ふ》きつけて来ます。そして、十月はこのへんでは、もう初冬といってよいころなんです。  だからその怪しい人影が、すっぽりと頭から黒い頭巾《ずきん》をかぶり、全身を大きな黒い外套《がいとう》で包んでいたというのも、決してふしぎな恰好《かつこう》ではありませんでした。ただその人物は、右手に黄色い角燈《かくとう》を下げていました。そしてその古風な燈火《とうか》を手に、その青年の乗っていた自転車の前に、立ちはだかったということでした。  深夜です。ことに、この黒装束《くろしようぞく》です。時が時、場合が場合であっただけに、青年が自転車から飛び降りて、すわとばかりに身構えたのも、決して無理ではありますまい。  その怪人《かいじん》は、角燈を青年の顔につきつけて、ふしぎそうに、その顔を見つめていました。青年もジリジリと相手の方に詰《つ》めよって、息づまるような睨《にら》みあいが、数分間は続いたのです。  だが、とたんにキャッと悲鳴を上げて、飛びすざったのは、その黒装束の方でした。角燈を、バタリと地上に落とすと、二度三度、鋭《するど》い叫《さけ》びを上げながら、その男はバタバタと林の奥《おく》に逃《に》げこんで行きました。  青年はしばらく呆然《ぼうぜん》として、その跡《あと》を見送っていました。だがはげしい不安と、好奇心《こうきしん》とにたまりかねたのでしょう。自転車を捨て、その男の跡を追って、林の中へ走りこみました。追いつ、追われつ、青白い月光を全身に浴びながら、木《こ》の間《ま》を縫《ぬ》って、しばらく生命《いのち》がけの追跡《ついせき》が続きました。  黒装束は息を切らして、甲高《かんだか》い悲鳴をもらしながら、必死にあちらこちらと逃げまどっています。だが木の根に足をとられて、バッタリ倒《たお》れてしまったところを、その青年が躍《おど》りかかり、馬乗りになって、その黒頭巾《くろずきん》をはぎとりました。  白銀のような月光に、照らし出されたその顔は、なぜか醜《みにく》くゆがんでいました。口はダラリと力なく開き、眼《め》は表情を失って、あらぬ虚空《こくう》を眺《なが》めていました。意味の分からぬ言葉が、たえずその口から飛び出した。と思うとクックッと、泣いているのか、笑っているのか、分からない声が時折|洩《も》れました。  その男は、完全に気が狂《くる》ってしまっていたのです。  青年はしばらく呆然《ぼうぜん》として、その場に立ちすくんでいました。男の正体が、その時初めて分かったのです。  それは松田医師のところで、自家用ダットサンの運転手をしていた、尾形三平という男でした。  その男が……この時間に……こんな所で、いったい何をするつもりだったのでしょう。  ご承知でしょうが、このあたりは、一帯の砂浜《すなはま》で、土地も痩《や》せ、気温も低く、その上風が強いので、農作物は全然だめ、ただ漁業で生計を立てている人間の集まりなので、この村から、野沢町の間にも、人家は一|軒《けん》もない、といってもいいくらいなのです。  ですから、この男の目的も、彼《かれ》にはその時、全然見当がつかなかったらしいのですが。いや、狂人《きようじん》のすることを、あれこれと詮索《せんさく》して見たところで始まりません。  青年は、自転車の荷掛《にかけ》についていた縄《なわ》で、その男を松《まつ》の木に後ろ手に縛《しば》り上げました。そして自転車を走らせて、野沢町へ帰って行こうとしたのです。  ところが、その青年は、今一つ恐《おそ》ろしいことに気がつきました。林の入り口には、一台のダットサンが乗り捨てられていたのです。その入り口は大きく扉《とびら》を開いたまま、中には人影《ひとかげ》も見えません。ただ何となく、プーンと鼻をついて来るような、生血の臭《にお》い……そしてその中に落ちている、土に汚《よご》れた一梃《ちよう》の鍬《くわ》……  いくらか残っていた酔《よい》も、すっかり覚めてしまいました。自転車のペダルを一心不乱に踏《ふ》んで、その青年は野沢町へ引き返し、松田医院へかけつけました。  建物とは、少し離《はな》れた所にある、車庫の扉《とびら》は大きく黒い口を開いていました……もちろん、中には車の影《かげ》もありません。  青年は、愈々《いよいよ》強く迫《せま》って来る不安と疑惑《ぎわく》にたまりかね、建物の戸をドンドンと叩《たた》きました。  しばらくして、寝《ね》ぼけ眼《まなこ》の看護婦が、眼《め》をこすりながら、戸を開けて、顔を出しました。 「先生はおいでですか」 「はあ、いらっしゃると思いますが……」 「実は、横浜村から帰る途中《とちゆう》、お宅の運転手の尾形さんが、気が変になって暴れていましたので、取りおさえて縛《しば》りつけてあるのですが、自動車もその辺に乗りすててありますので、何だか心配になって、やって来ました。先生にこのことをお知らせして下さい」  さすがに驚《おどろ》いた様子で、看護婦は奥《おく》へかけこんで行きましたが、一緒《いつしよ》に出て来た澄江《すみえ》という、若い夫人の顔は、紙のように青白く生色を失っていました。 「まあ、小林さん、あなたでしたの……」  夫人は幽霊《ゆうれい》でも見たように、思わずフラフラとよろめきました。 「主人が……主人がどこにもいないのです。今晩はいろいろ仕事があるといって、さっきからずっと離《はな》れにいたのですが……いま行って見ると、どこにもいないんですが……ひょっとしたら、何か間違《まちが》いでも起こったんじゃ、ないでしょうか。私をそこへ連れてって下さい」  血を吐《は》かんばかりに狂《くる》い叫《さけ》ぶ夫人をどうにかなだめると、その青年は、その足で警察署へ急ぎました。  巡査《じゆんさ》たちも、この話には驚《おどろ》いたでしょう。打って変わったような、松田先生の乱行には、眉《まゆ》をひそめていたところへ、突如《とつじよ》として起こったこの事件なのです。  警官たちは、その小林という青年と一緒《いつしよ》に、早速その現場へと出かけました。  調子の外れた、甲高《かんだか》い笑い声は、はるかの彼方《かなた》まで、手にとるように聞こえて来ました。尾形三平が、ゲラゲラと、笑いつづけているのです。一同は、何か肌寒《はださむ》いものを感じて、思わず震《ふる》え上がったということですが、これは決して、その夜の寒さのためばかりではなかったのでしょう。  夜の間は、捜査《そうさ》もそれほど進みませんでしたが、朝になって、幾《いく》つかの恐《おそ》ろしい事実が明らかになり出しました。  まず、血にまみれた金槌《かなづち》です。それからべっとりと、血のしみこんだタオルが二枚、それが林の中に落ちていました。後で分かったことですが、これはみな、松田医院の物だったのです。  いや、そればかりではありません。もっともっと恐《おそ》ろしい、血なまぐさい、たしかな証拠《しようこ》が発見されたのです……  あなたはこのあたりに群棲《ぐんせい》している、大鴉《おおがらす》の群れを、ご覧になったことがありますか。  漁村では、あらゆる動物が獰猛《どうもう》です。夏になって、飛び出して来る蚊《か》でさえも、都会の常識は通用しません。刺《さ》された跡《あと》は、かゆいというより痛いのです。蜂《はち》にさされたように赤黒く腫《は》れ上がって、すぐ化膿《かのう》してしまうのです。皮膚《ひふ》の繊細《せんさい》に出来ている都会人なら、痛さにこらえかねて、オイオイと声を上げて、泣き立てるかも知れませんね……  しかし何といっても、物凄《ものすご》いのは、この大鴉の大群なのです。何万羽か、何十万羽か知れません。どこから飛んで来るのかどこへまた飛び去って行くのか、たえずこの砂丘《さきゆう》に翼《つばさ》を休めては、魔女《まじよ》のような、薄気味《うすきみ》悪い声で鳴きかわしているのです。翼を拡《ひろ》げて、一群が空中に舞《ま》い上がれば、天日も為《ため》に暗し、といいたいくらい……人間などには、少しも恐《おそ》れをなしません。いや、飢《う》えに苦しむときなどは、子供にも襲《おそ》いかかるというくらい……大人だって、あの大群が襲いかかって来たならば、倒《たお》されないとも限りますまい……  その大鴉の大群が、その朝は、林の側の砂丘《さきゆう》の上で、狂《くる》わしい乱舞《らんぶ》を続けていました。四十年、野沢町に住みなれた、老警官でさえ、まだ見たこともなかったほどの、無数の鴉の大群でした。  しかもその一羽一羽は、口々に何か奇怪《きかい》な叫《さけ》びを続けていました。舞《ま》い上がり、舞い下がり、どんよりと灰色に曇《くも》った大空を蔽《おお》いつくし、大きな翼《つばさ》で虚空《こくう》を搏《う》って、しきりに天《あま》がけっているのでした。  だがその動きを眺《なが》めていると、この大群の運動にも、何か一定の法則のあることが分かって来ました。右に行く群れも、左に行く群れも、上の群れも、下の群れも、砂丘の上のある一点を中心として、幾《いく》つかの大きな渦《うず》を描《えが》いていました。そしてその中心の砂の上には、この大群の首領と見える、ことに大きな鴉《からす》が五、六羽、狂《くる》わしく鋭《するど》い鳴き声を立てながら、血走ったような真っ赤な眼で、砂の上を貪《むさぼ》るように見すえていました。鋭い嘴《くちばし》で、そこをしきりに掘《ほ》り返していました。舞い上がっては舞い下がって、砂を全身に浴びせかけんとするような、ふしぎな舞《まい》を舞っていました……  人々の心には、何かギクリとこたえるものがあったのでしょう。その群れを蹴散《けち》らしながら歩みよると、そこだったのです。そこの砂だけ、最近|誰《だれ》かが掘り返したような、新しい色だったではありませんか。  誰《だれ》一人、口をきこうとする者はありません。そのくせ、喉《のど》のすぐ奥《おく》まで、恐《おそ》ろしい言葉がこみ上げていたのですが……  人々は黙々《もくもく》として、鍬《くわ》を振《ふ》るって、その場所を掘り返しにかかりました。一人として、この中から何が出て来るか、察していない者はなかったことでしょう。だが心の奥底のどこかでは、何とかして、万一にでも、その予想が外《はず》れてくれはしないかと……  しかし、その恐《おそ》ろしい疑惑《ぎわく》はついに、現実の形となって現れました。  鍬《くわ》の一振《ふ》り一振りごとに、男の手が、肩《かた》が、頭が、胴体《どうたい》が、次第に浮《う》かび上がって来ました。無惨《むざん》にも、頭と顔とを目茶目茶に叩《たた》きつぶされて、それは一見、誰のものとも識別できない死体でした。  しかも着物は全部|剥《は》ぎ取られ、一糸もまとわぬ男の死体だったのです。  この事件では、顔のない死体は、このようにして、発見されたのでした……  男はポツリと言葉を切って、マッチで煙草《たばこ》に火をつけた。ポッと燃え上がる、かすかな赤い光の中で、その双眸《そうぼう》は、焔《ほのお》のように輝《かがや》いていた。  ちょっと浅黒い、だが男らしく、キリッとひきしまった容貌《ようぼう》である。これまで一度も会った覚えはない。しかし、彼《かれ》とよく似た人間を、私はいつかどこかで見たことがある。深く心の底に埋《う》もれて、どうしてもはっきりと、記憶《きおく》によみがえらせることはできないが、誰だったろう。誰だったのか……  それにしても、彼の物語は、私を心から驚《おどろ》かせた。話術の巧《たく》みさも手伝《てつだ》っていたかも知れない。しかし、まるでその時、現場に居合わせたかのごとく、状景をこのように鮮《あざ》やかに、このように生々《なまなま》しく、私の眼前によみがえらせた力は決して唯者《ただもの》ではない。  この男はいったい何者だろう。  私の胸は、はげしい好奇心《こうきしん》に燃えていた。 「なるほど、面白いお話でした。それよりも、あなたの話術には驚《おどろ》きましたよ。失礼ですがおいくつですか」 「二十四になります」 「それから、これも妙《みよう》なお尋《たず》ねですが、いまのお話は、いくらかフィクション化してあるのでしょうね」 「先生はさっきご自分で、探偵《たんてい》小説はフィクションだ、といわれたばかりじゃありませんか」  その青年は、笑いを喉《のど》の奥《おく》で噛《か》み潰《つぶ》すようにして答えた。 「それでその事件は、いったいどのように解決したのですか」 「まず死体が鑑定《かんてい》されました。その結果、顔面は誰《だれ》の死体か、分からないように粉砕《ふんさい》されてはいましたが、特長のある入歯や、指紋《しもん》や、足の裏の疵跡《きずあと》などから、医師松田順一の死体に疑いなしと断定されました。  犯人は結局、運転手尾形三平の凶行《きようこう》ということに決定されたのです。この男は、もともと、野沢町のある寺に棄《す》てられていた捨て児だったのです。それを先代の松田先生が、拾い上げて育て、自動車の運転手の免状《めんじよう》までとらせたのです。主家のためには、恩義を命より大事に感じ、命令は善悪によらず実行するような、愚直《ぐちよく》な性格の男でしたが、復員以来、すべてにつけて、気が荒《あ》らくなっていた主人にたまりかね、飼《か》い犬《いぬ》が手を噛《か》むように、狂気《きようき》のあまり、今度の犯罪を行ったのだろうと推定されました」 「なるほど、面白い事件に違《ちが》いはありませんが、それでは『顔のない死体』にも、何の意味もありませんね。精神異常者ならば、どんなことでもやりかねませんよ。……」 「いや、先生、そんなに簡単にお考えにならないで下さい……この事件には、まだまだ奥《おく》深い裏の意味があるのですよ」  私は思わず、ギクリとした。立ち上がろうとした私の腕《うで》をつかんだその男は、鉄のような力でふたたび私を坐《すわ》り直させた。 「先生、まあ落ちついてお聞きになって下さい。私は自分の智恵《ちえ》のあらん限りをふり絞《しぼ》って、この事件の恐《おそ》ろしい真相を推理したのです。これからそれを、詳《くわ》しくお話いたしましょう……」     3 「私の考えでは、この死体の顔が粉砕《ふんさい》されていた、ということには、一つの恐ろしい犯人の意図がひそんでいるのです。  先生、あなたのお考えのように、精神異常者の仕業《しわざ》だった、と当局も思いこんでしまったために、いくつもの大きな矛盾《むじゆん》が、そのまま見過ごされてしまったのでした。  たとえばです。運転手が発狂《はつきよう》して、主人を惨殺《ざんさつ》したのなら、その後で自動車を運転して死体を運び出すなどという真似《まね》が、いったいできることでしょうか……」  たしかにそれは急所を鋭《するど》くえぐっていた。——それだ、と私も思わず叫《さけ》びたかったくらいに…… 「それから、犯人はこの死体が発見されることを果たして、予想したかということなのです。何といっても、この半島は、日本中でも一番人口密度の稀薄《きはく》な土地、鉄道の駅と駅との間隔《かんかく》も、日本で一番長いというくらい……その上に、その間には、人家|一軒《けん》建っていません。この死体が発見されたのは、ほんの偶然《ぐうぜん》というほかはありませんね……  それほど、発見される危険が少ないのなら、なぜわざわざ念を入れて、死体の顔を叩《たた》きつぶす必要があったのでしょう……」  私は今まで、この事件を、狂人《きようじん》の犯行だとばかり思っていたのだった。そのため深くは考えようともしなかったのだが、その裏に、恐《おそ》ろしい犯人の奸智《かんち》がひそんでいるとなると……これはこの上もなく恐ろしい事件の一つだったではないか。 「それで、あなたはいったい、どういう風にこの真相を推理されたのですか」  私は息せききってたずねた。 「私はまず、尾形三平が、ある瞬間《しゆんかん》までは決して発狂《はつきよう》していなかった、という考えを、根本の仮設として出発したのです。そして松田医院の人々を、めぐる人間関係を掘《ほ》り下げて行きました。  第一に松田先生と澄江夫人の仲は、決して初めから円満にいってはいなかったということです。年は二十も違《ちが》います。親子のようなひらきです。このような田舎《いなか》では、結婚《けつこん》に個人の意志などというものは認められていません。ことにまだ子供のような年ごろだった澄江夫人が親の希望を断りかねて、初恋《はつこい》の相手をあきらめ、この医師の所へ嫁《とつ》いだのも、同情できないことはありませんが、その夫が戦地へ去ったあとになって、ふたたび初恋の人が自分の前へ現れて来たとしたら、夫との性格があわないことを感じていただけに、その結果はいったいどうなりましょう……」 「というと、その初恋の相手というのは」 「それが小林三郎なのです。当時ある大学の学生でした」  私は何も言葉をはさむ元気がなかった。 「小林という青年は、もともとこの土地の生まれではありません。だが彼《かれ》が、この村に住んでいる、勝原彦造という友人を訪《たず》ねるという表面の目的で、野沢町にしばらく滞在《たいざい》していたのは、外《ほか》に何かの目的が、あってのことではないでしょうか。  彼は時々、いや毎日のように、この村を訪ねて来たということです。そしていま我々の坐《すわ》っている、この社《やしろ》へも始終|訪《おとず》れたということです。そして澄江夫人も、夫の無事を祈願《きがん》するという口実で、毎日のように、この社へお参りに来たということでした。  最初の年の訪問はそれでも何のこともなくすみました。しかし翌年の秋、小林三郎がふたたびこの海岸を訪《おとず》れた時、松田先生は既《すで》にこの土地へ帰って来ていました。そして、その年、この事件は突発《とつぱつ》したのです。  夫人に思いを焦《こが》していたのは、この勝原彦造も同じだったかも知れません。彼《かれ》は先代時代から、松田家とは心易《やす》かったのをいいことに、機会さえあれば、松田先生の留守宅に入り浸《びた》っていました。多少小金があったので、漁師に金を貸したりして、高利貸のように嫌《きら》われ者でした。中学校を出ているだけに、悪智恵《わるぢえ》といいたいような頭が働き、何かといえば、すぐ法律を持ち出して、相手を脅《おど》しつけるのがくせでした。そのうえ、腕《うで》っ節は馬鹿《ばか》に強く、中学当時も、柔道《じゆうどう》は三段だったというくらいで、命知らずの漁師たちも、喧嘩《けんか》ではてんで初めから歯が立たなかったのです」  いつの間にか、太平洋の彼方《かなた》には、黄金色《こがねいろ》の満月が昇《のぼ》り始めた。冷たい冬の月光が、チラチラと幾《いく》千万の銀波に散って、何となくきびしい寒さが身にしみた。緊張《きんちよう》しきった、私の耳には、この時社《やしろ》の裏手の方で、ガサリという物音が聞こえたように思われたが、いや、人の来るはずはない。野鼠《のねずみ》か、鴉《からす》の羽音でもあろうと、私は強く心に打ち消した。 「ただ一つ、この男の自慢《じまん》していたのは、女に対する腕でした。どんな女でも、自分が一度|狙《ねら》いをつけたら、必ず物にして見せると、私たちは初めはその言葉を馬鹿《ばか》にしていましたが、後からそれを考えて見ると、いや、決して嘘《うそ》ではありません。醜男《ぶおとこ》で、背も低くちっとも風采《ふうさい》の上がらない男ですのに、女を口説《くど》くことにかけては、天才的といいたいような、力を持っているのでしょうか。それとも女というものはああした相手に、私たちには理解の出来ない魅力《みりよく》を感ずるものでしょうか。  大分横道へ外《そ》れてしまいましたが、とにかくこうした二人の男が、澄江夫人を繞《めぐ》って存在していたために、警察でも一応はこの二人にも注意の目を向けたのは当然でしょう。  しかし事件の当夜は、この二人には十分のアリバイがありました。  死亡時間は、午前一時前後と推定されています。というのは、松田先生は当日、離《はな》れの座敷《ざしき》で一人で調べ物をしていたようですし、十二時十分過ぎごろ、往診《おうしん》を頼《たの》む、と電話がかかって来たので、看護婦が知らせに行って、その姿を見ています。大層|不機嫌《ふきげん》で、病気だからといって断れ、今晩はどこへも出ないから、といったそうです。奥《おく》さんの方は、風邪気味《かぜぎみ》で、早くから床《とこ》に就《つ》いていました。  一方、小林青年が、林の中で、尾形三平を発見したのは、二時ちょっと過ぎだったようです。人間一人入れるだけの、穴を掘《ほ》って死体を埋《う》めるには、一時間はたっぷりかかりましょうから、どうしても犯行は、一時前後と見るほかはありません。  ところがこの二人とも、その晩は、野沢町から二里、死体の発見された現場からは、一里もあるこの村|外《はず》れの、勝原彦造の家で宵《よい》から飲んでいたのです。十二時までは、外《ほか》にお客もありました。それを過ぎてからは、二人と家族だけになったというのですが、たとえ自転車に乗って往復したとしても、この間にこの距離《きより》を往復し、殺人を行い、その死体を埋めて帰って来るなどいうことは、到底《とうてい》出来ることではありません。  ただ小林三郎が、なぜ二時ごろになって帰って来たか、それに疑問があるのですが、彼《かれ》は初めは泊《と》めてもらうつもりだったし、家族もそのつもりで、離《はな》れに二人の床《とこ》を敷《し》いていたのだそうです。それが二時ごろになって、どうしたのか、二人が急に喧嘩《けんか》をはじめ、なぐりあいをしそうになって、小林青年は憤然《ふんぜん》と家を飛び出したのだそうですね……  これ以上、どこからも突っこむ余地はなさそうでした。しかし私は、自分を松田先生の立場において、考えて見たとき、あの恐《おそ》ろしい悪魔《あくま》のような考えに思い当たったのでした。  何年という空漠《くうばく》たる戦場の生活に、生命《いのち》をかけて苦しんで来た自分が、やっと内地へ帰って来た時、最愛の妻の心はもはや自分のものではなかった……  何という責め苦でしょう。艱難《かんなん》でしょう。火と剣《けん》の地獄《じごく》を通り過ぎたと思ったら、今度はそれよりも更《さら》に苦しい恐ろしい、愛慾《あいよく》と煩悩《ぼんのう》の地獄が待っていたのです……酒も仕事も、心を静めることはできません。日夜|荒《あ》れ狂《くる》う心中の火が、彼の心を悪魔にしました。  二人のどちらが、妻の心を奪《うば》ったのか、そこまで突《つ》きとめることはできませんでした。だが一石で、この二人を同時に除くことができたなら……それは不貞《ふてい》の妻への、この上もない復讐《ふくしゆう》でした。或《あるい》はそれによって、妻の心がもう一度、自分に帰って来ないものかと……戦場で悲惨《ひさん》な目を見て来た彼には、他人の命の一つ二つ、虫けらの命ほどにも思われなかったのでしょう。  彼の計画は、この上もなく恐《おそ》ろしいものだったのです。その夜二人が、勝原家で酒宴《しゆえん》を催《もよお》すことを知った彼は、深夜自動車でこの村へ訪《おとず》れ、勝原家の離《はな》れ座敷《ざしき》に忍《しの》びこんで、二人を殺害しようとしました。  だが、二人の死体をそのままそこに残しては、勿論《もちろん》犯人が外《ほか》にあるのではないか、ということになります。彼の計画は更《さら》にその上手《うわて》を行って、勝原彦造の死骸《しがい》だけをその場に残し、小林三郎の死体を運び出し、永久に誰《だれ》の目にもつかない所に処分することでした。  一石二鳥の計画でした。一つの死体と一人の失踪《しつそう》……当然犯人は、小林青年だということになりましょう。だがどんなに捜索《そうさく》の手を伸《の》ばしても、彼が生きて発見されるはずはありません。悪魔《あくま》は凱歌《がいか》を上げながら、勝利の杯《さかずき》に酔《よ》いしれることができるのです。  ただ死体を近くにかくしては、万一の場合発見される危険もあることです。できるだけ遠くへ運んでおかなければ……  それで彼は、尾形三平に万事を打ちあけ、彼に自動車を運転させて、この事件の共犯に使おうと決心しました。  愚直《ぐちよく》な彼《かれ》のことでした。ことに主人の命令は、善にもあれ、悪にもあれ、彼には絶対至上のものだったのです。ところがこの計画は、計画全体を根本から覆《くつがえ》してしまうような、一つの大きな力が働いたのです。  いつの間にか、二人の間に、こうした恐《おそ》ろしい計画が進められていることを知った澄江夫人は、初恋《はつこい》の人、小林三郎の身に危険の及《およ》ぶことを恐れて、この事を相手に内通しました。そうして一刻も早く、この海岸から立ち去ってくれと、涙《なみだ》を流して懇願《こんがん》しました。  しかし大胆《だいたん》不敵にも、この青年は、一歩も後へ退こうとはしませんでした。そればかりか、逆に相手の計画を逆用して、この医師の生命を奪《うば》い、愛人を救い出そうとしたのです。勝原彦造と酒を飲みながら、十分のアリバイを作り、時間を見計って、離《はな》れの座敷《ざしき》へ入ります。そして忍《しの》びこんだ松田医師を逆に金槌《かなづち》でなぐり殺し、顔を誰《だれ》か分からぬように目茶目茶に叩《たた》き潰《つぶ》し、着物を剥《は》ぎ取って、その死体を運び出し、運転手に、俺《おれ》は後一人殺して自転車で逃《に》げ出すから、早くこの死体を運んで予定の場所に埋《う》め、約束《やくそく》の場所で待ちあわすようにと、松田医師を装《よそお》って、ささやいたのです。お分かりになりましたか。この事件での『顔のない死体』の意味が……  少なくとも、一人の人間、運転手だけは、このトリックによって、完全にあざむかれてしまったのです。彼は小林三郎の死体だとばかり思って、自分の主人の死体をかついで自動車にのせ、あの林まで帰って砂丘《さきゆう》に穴を掘《ほ》って埋《う》めたのでした。だが小林青年の仕事は、まだ一つ残っていました。後で運転手が捕《とら》えられて、一切を白状してしまっては、せっかくの計画も、水の泡《あわ》となってしまいます。  彼《かれ》はわざわざそのために、喧嘩《けんか》を始めて引き返し、指定の場所へ急いだのでした。そこで待ち受けていた運転手を叩《たた》き殺し、強盗《ごうとう》に襲《おそ》われた上の正当防衛だ、と届け出れば、時が時、場合が場合だけに、その言い分は通用します。この計画を立てた医師が、自分の行動を秘密にしているのは当然ですから、まさか往診《おうしん》の途中《とちゆう》を襲《おそ》って、小林三郎が二人を惨殺《ざんさつ》したのだとは、誰《だれ》一人として思いますまい。  主人だとばかり考えて、林の中から現れたこの運転手が、角燈《かくとう》の光で小林青年の顔を見たときの、その驚《おどろ》きは容易に分かることなのです。自分たちが、たった今、殺して埋めたとばかり思っていた男が、生きて自転車で現れたのですもの、幽霊《ゆうれい》かとも思ったのでしょう。しかし相手は生きている! しかも目の前に、ジワリジワリと、自分を殺そうとして迫《せま》って来る!  この運転手が、途端《とたん》に発狂《はつきよう》してしまったのも、決して無理とは思えません。  運転手を取りおさえて、発狂しているのを知った小林三郎の口もとには、またしても恐《おそ》ろしい、ぶきみな微笑《びしよう》が浮《う》かび上がって来ました。  発狂しているのなら、彼の口から、事件の真相の洩《も》れる気づかいはない。そんならここで殺すよりも、このまま警察へつき出す方が、自分の身も安全だし、医師殺しも、彼の発狂《はつきよう》しての犯罪だと思われるだろうと、悪魔《あくま》がかすかにささやいたのです。  運転手を縛《しば》り上げ、かくして持って来た、タオルや金槌《かなづち》を、その場に捨てると、彼は自転車のペダルを踏《ふ》んで、深夜の道を野沢町へと急ぎました…… 『顔のない死体』のトリックは、一人を一時あざむくことに成功し、ひいては万人を永久にあざむくことに成功したのです。 「先生、これが私の推理し得た、この事件のかくされた真相だったのです……」  私はもはや、はげしい興奮を禁ずることは出来なかった。燦《さん》として輝《かがや》く月光を浴びて、彼の顔には、いまや蔽《おお》い得ない、悪鬼《あつき》にも似た殺気が漲《みなぎ》り溢《あふ》れている! 「先生、あなたは私が、実際の事件を、小説的に脚色《きやくしよく》したことをお責めになりました。いかにもそうでないとは申しません。だが先生、あなたも今こそお分かりでしょう。三年前を十年前といい直し、小林三郎を木下晴夫と改めれば、これはそのまま先生の体験なさった事件のはずです」  彼の言葉の通りであった。いかにも今から十年前、私はこの海岸で、人妻となった澄江と許されぬ恋《こい》に陥《お》ちた。その結果、あの恐《おそ》ろしい『顔のない死体』の事件が起こったのだ。これは私の心の中に、長く癒《い》えない痛手を残し、私の良心は澄江の美しい面影《おもかげ》を描《えが》き出しては、たえずタラタラと鮮血《せんけつ》を迸《ほとばし》らせていた。だが、或《あるい》はその傷の癒《い》やされることもあろうかと、自分勝手な考えを抱《いだ》いて、訪《おとず》れて来たこの村で、この事件のことを聞こうとは。かくも鋭《するど》く、事件の裏の秘密を曝露《ばくろ》されようとは…… 「あなたはいったい誰《だれ》なのです……」  私は思わず口走っていた。 「お分かりになりませんか。あなたの恋人《こいびと》に、信吉という弟のいたことを覚えておいででないのですか……」  信吉、信吉、澄江の弟……そういえばたしかにそれにちがいない。月明りとはいいながら、それをどうして、今の今まで、気がつかないでいたのだろう。 「僕《ぼく》はあなたの行動をば、責めるわけではありません。正当防衛としては、あまりにも度を越《こ》した行動ですが、あなたとしては、あの場合、止《や》むを得なかった行為《こうい》だと、弁解なさることも出来ましょう。ただあなたが二度までも、姉に対してなさった背信の行為……それだけは、僕は断じて許せません。姉は信じたあなたに裏切られたため、止むを得ず、勝原彦造に嫁《とつ》ぎました。そしてふたたび、地獄《じごく》の責め苦がつづきました。美しかった姉なのに、いまは全く廃人《はいじん》です。生ける骸《むくろ》となったのです。これを思えばみんなあなたのため……」 「君は僕をどうしようというんだい」  私は自分の首に迫《せま》って来る、鋼鉄《こうてつ》のような彼の両手を感じて、思わず立ち上がった。 「復讐《ふくしゆう》です。この戦争がなかったら、もっと早く、姉の恨《うら》みは晴らしたのですが……  先生、あなたとここで会ったのを、単なる偶然《ぐうぜん》とお考えですか。決してそうではありません。  郷里に帰った先生の跡《あと》を、今までつけて来て、初めて機会が得られたのです。  最も完全な犯罪は、最も単純な犯罪だといいますね。先生がここから突《つ》き落とされて、死んだとしても、誰《だれ》一人見ている者はおりません。叫《さけ》び声さえ聞こえぬでしょう。探偵《たんてい》作家の過失死と、万事はそれで片づくんです……」  一歩一歩、私は断崖《だんがい》の上へ追いつめられた。 「信吉君、それは違《ちが》う。その推理は君のドグマだ。それには大きな誤りがある!」 「今更《いまさら》何をいうのです。男らしくあきらめたらどうですか……」  私の眼前には、あの恐《おそ》ろしい大鴉《おおがらす》のように、死が巨大《きよだい》な翼《つばさ》を拡《ひろ》げて羽搏《はばた》いていた。子供の時からの、三十年の思い出が、電光のように網膜《もうまく》に大写しに浮《う》かび上がって消えて行った。  そして最後の瞬間《しゆんかん》だった。 「信吉さん。だめよ。晴夫さんを殺しちゃだめ。ちょっと待って……」  社《やしろ》のかげから、弾丸《だんがん》のように、この場へ躍《おど》り出して来た黒衣の女——それはたしかに、忘れ得ぬ初恋《はつこい》の人、澄江であった。     4 「姉さん、どうしてあなたがこんな所へ」  信吉もさすがにこれには驚《おどろ》いたのであろう。私の胸をつかんでいた手を離《はな》し、懐中電燈《かいちゆうでんとう》をその顔につきつけた。  あの花のような美貌《びぼう》はどこへ行ったのだろう。三十にはとどいていないはずだった。だが痩《や》せ衰《おとろ》え、色も青ざめ、窪《くぼ》み落ちた眼《め》だけがわずかに青春の余燼《よじん》をとどめて輝《かがや》いている。松田家に嫁《とつ》いで、夫に地獄《じごく》の責め苦を味わされていた時でさえ、美しく花やいでいたあの人が……顔が心の鏡という、古い言葉が真実なら、この人の心は六十の老婆《ろうば》であった。 「晴夫さん……しばらくでした。大変ご成功なさったそうで、わたくしもかげながら、お喜びしておりますわ。信吉さん、あなたは何んと早まったことを……晴夫さんには、何んの罪もありません。さっきから、あなたのお話は全部残らず聞きましたが、あなたはとんだ間違《まちが》いをしているのです」 「でも姉さん、あれは姉さんに、話していただいた通りの話なんですよ」 「わたしは晴夫さんに、松田の計画を知らせたなぞ、一言《ひとこと》も申したおぼえはありません」 「それだけは、僕《ぼく》の想像でした……」  彼は面目なさそうに顔を伏《ふ》せた。 「わたくしも今日までは、晴夫さんが、松田を殺したものだとばかり思っていました。  晴夫さん。松田が死にましてからの、あなたの結婚《けつこん》のお申しこみを、わたくしどうしても、お受けはいたしませんでしたね。あなたは定めし、わたくしに裏切られたとでも、お考えになっておられたことでしょう。  しかしそうではなかったのです。わたくしは、あなたのためを思えばこそ、心を鬼《おに》にしてあなたのお言葉をお受けしませんでした。そして地獄《じごく》へ行くつもりで、勝原のところへ嫁《とつ》いで行ったのです。  いま、信吉があなたに申しあげた、その言葉をそのまま勝原は、十年前あの事件のすぐ後で、わたしの耳にささやいたのです。ただ、あなたがどうして、松田の計画をご存じだったか、それだけは、どうしてもいいませんでしたが……  ……どうです。私の口一つで、木下さんは死刑《しけい》になるか、よくいっても無期か、二十年ぐらいの懲役《ちようえき》ですね。あなたはそれでもかまいませんか。しかし何もね、私は好んで木下を、辛《つら》い目にあわしたいわけじゃないんですから、そこはまあ、俗にいう魚心あれば水心……これは私以外に真相を知っている者はないんだから、あなたが私と結婚してくれさえすれば、私はいつまでも、一言《ひとこと》も余計なことはしゃべりませんよ……。  あの男は離《はな》れで、あなたが松田を殺して、死骸《しがい》を裸《はだか》にして運び出すのを、たしかに見たというのです。裁判所へでも、警察へでも、どこへでも出て、証言するというのです。  わたくしはもう、あなたのために、すべてをあきらめて、あの男と結婚《けつこん》する以外、ほかに方法はありませんでした。わたくしのため、恐《おそ》ろしい殺人罪まで犯して下さった、あなたのためなら、わたくしも、どんなことでも辛抱《しんぼう》しなければならないと思ったのです。  それから十年、思えば長い苦しい年月でした。わたくしの体だけは、自由にしたというものの、心まで自分のものにならなかったことを知ったあの男は、持ち前の裸の性格をまる出しにして、日に夜にわたくしをさいなみました。その辛《つら》さ、その獣《けもの》のような物凄《ものすご》さは、何んといったらよいのでしょう。耐えられないと思っていた、松田の仕方さえ、あの十分の一にも、及《およ》ばなかったくらいです。  そればかりではありません。兵隊から帰還《きかん》して来た信吉に、あの男は、このことを残らず話して聞かせたのです。わたくしたち、二人だけの秘密にしていたことを……  ……お前の姉さんの、初恋《はつこい》の男っていうのは、実は恐ろしい人殺しなんだよ。今は偉《えら》くなってすましているが、もし俺《おれ》が一言でも口を割ったら、刑務所《けいむしよ》行きの代物《しろもの》さ……。  こういわれて、信吉は血相変えて、わたくしの所へ飛んでまいりました。わたくしでさえ、今日までは、本当と思いこんでいたことなのです。信吉があなたを殺そうとつけねらいましたのも、青年の一筋に思いつめました血気から……どうか、お許し下さいませ。  ところが今日でした。今日になって、はじめて事の真相が分かったのです。  今日のお昼ごろ、わたくしの所へ使いが参りました。十年前、あの事件の当時、松田の所で看護婦をしておりました、塚越《つかごし》モト。ごぞんじでございましょうね。それが長い病気でもう二、三日しか持たないというので、わたくしにぜひ一目あいたいといって来たのです。  ……わたくし奥様《おくさま》に、大変申しわけのないことをしておりました。今となっては、もう取りかえしもつきませんが、それを死ぬ前に申し上げておきませんと、わたくし死んでも死にきれません……。  それが最初の言葉でした。そしてポツリポツリと、苦しい息の中で申したこと、それが恐《おそ》ろしい、この事件の真相だったのです。  松田と尾形の、人殺しの計画を盗み聞きしたのは、この看護婦だったのです。そしてそのことを、寸分もらさず、教えた相手はあの男、勝原だったというのです!  事件の計画を知っていたのは、晴夫さんでなく、勝原だったとしたならば、その計画を逆用したのがどっちだったか、これも疑う余地はありません。どちらが離《はな》れへ入ったのか、どちらが喧嘩《けんか》を売ったのか、事件の本筋とは、関係もないことだけに、調べもついていませんでした。また十年後の今となっては調べようにも、その方法がありません。  ただ看護婦の話では、晴夫さんに喧嘩《けんか》を売ったのは勝原の方、そうして運転手の待っている所へ追いこんで、運転手を殺させてしまうつもりだったといいました。何んという恐《おそ》ろしい計画だったことでしょう。鬼《おに》です。まるで悪魔《あくま》です。その上に自分も後からぬけ出して、そっと遠くから、運転手が縛《しば》りつけられるまで見ておって、運転手が発狂《はつきよう》したことを知り、これでいいと思って、金槌《かなづち》やタオルを捨てて、引き返したのだということでした。  ああ、このことを十年前に知っていたなら、わたくしはそう思って、泣きながら、病人の顔を見つめました。しかし、この人もおそらくあの男を愛していたのに違《ちが》いありません。わたくしは、この人を咎《とが》める気にはなりませんでした。すべてを許すと約束《やくそく》して、安らかに死なしてやりたいと思いました。  フラフラと、腑抜《ふぬ》けのようになって、家へ帰って来たわたくしの気がついたのは、あの男がいつも大事にして、わたくしに開けさせたこともない、箪笥《たんす》のことでした。わたくしは泥坊《どろぼう》のように、それを一生|懸命《けんめい》にこじ開けました。そしてわたくしは、その中に見たのです。松田があの夜、殺された夜に、着ていたはずのジャンパーとズボン、たしかにそれに違いはありませんでした」  何んと恐ろしい、私にとっては、何んと心を鋭《するど》くえぐって来る事件の真相であったろうか。傍《かたわ》らに立つ信吉もいまは私への恩讐《おんしゆう》を忘れて、ただハラハラと涙《なみだ》をこぼしているのだった。 「姉さん、すみませんでした」 「いいのよ、いいのよ。もう何もかも終わったのよ。いま一度、と思ってやって来た思い出の場所で、こうしてあなた方にあえたのも、晴夫さんの命を助けることができたのも、みんな、神様のおかげでしょう。一生幸福を知らなかった、わたくしのような、みじめな女でも、神様は一度は助けて下さったのね……」  聞こえるか、聞こえないかの言葉であった。私と信吉とは、その時顔を見合わせていた。 「さあ、信吉君、これで君の気持ちも晴れたろう。あらぬ疑いをかけられた時は、さすがに僕《ぼく》もギクリとしたが、もう君と僕との間には、何んのわだかまりも残ってはいない。すべてを忘れて、姉さんを助けてあげようじゃないかね」  彼も大きくうなずいた。 「そうしましょう。僕のしたことを許していただけるなら、これほど嬉《うれ》しいことはありません。姉さん、塚越さんはまだ生きているのでしょう。その言葉を証拠《しようこ》にして、あの男を警察へつき出そうじゃありませんか」  澄江は静かに首を振《ふ》った。 「だめです。もうあの男には、法律は何んの役にも立ちません」 「いや、時効には、まだまだ間があるはずですよ。澄江さん、十年前と私の気持ちはいまも変わっていません。いま一度、僕の言葉を真剣に考えては下さいませんか」  澄江は、黒い洋服の上にまとった、黒いマントを翻《ひるがえ》して、断崖《だんがい》の上に立ち上がった。その顔はすべてを諦《あきら》めきったというような、何か神々《こうごう》しい色であった。 「晴夫さん。あなたのお気持ちは、わたくしあの世まで、嬉《うれ》しくいただいて参ります。でもわたくしは、あなたとこの世で結婚《けつこん》するわけには行かないのですわ。すべてはもう終わってしまいました。わたくしは、二人の夫を殺した女……あの男は、わたくしの飲ませた毒で死んでいます。最後にあなたにお目にかかれて、本当に嬉《うれ》しかった……では、信吉さん、晴夫さん、さようなら……」  はっと引きとめようとして、私たちの差し出した手も間に合わなかった。  血の出るような、絶叫《ぜつきよう》を後に残して、澄江の体は、皎々《こうこう》と輝《かがや》く月光に照らされながら、無限の空間へ堕《お》ちて行った。それはさながら、失える人の魂《たましい》を求めて虚空《こくう》に舞《ま》う、一羽の大鴉《おおがらす》の姿であった。  幽霊《ゆうれい》西へ行く     1  二月初めのある日の夕方、西銀座の喫茶店《きつさてん》「レベッカ」に、二人の男女が坐《すわ》っていた。ウエイトレスは、互《たが》いに袖《そで》をひきながら、二人の方を見つめて、ひそひそとささやきあった。そのそばを通りすぎる人々も、思わず足を止めんばかりに、チラと横目で、女の方を見つめては、名残|惜《お》しそうに去って行った。  女はその視線を、とりわけ意識しているような様子も見えない。こんなことにはなれている、といいたそうに、静かにコーヒー茶碗《ぢやわん》をかきまわしていた。  豪華《ごうか》な毛皮のオーバーに、テーブルの上に投げだした鰐革《わにがわ》のハンドバッグ、鮮《あざ》やかに虹《にじ》の弧線《こせん》を描《えが》く眉《まゆ》、媚態《びたい》の色気をいっぱいにみなぎらせた切れ長の眼《め》、ハリウッド風のルージュの紅もさえている。誰《だれ》しも一目でそれと気づく、映画女優の上杉|弥生《やよい》であった。 「高島さん、当時はいろいろお世話になりまして……あれからもう何年になりますかしら」 「十年……でも、何だか、私などには生まれる前のような気もしますね」  男は五十二、三だった。人生の四時を廻《まわ》った感じであった。  身につけている、背広もグレイのオーバーも、スコッチの生地、外国仕立てにちがいなかったが、型は随分《ずいぶん》古かった。体にも、とうにあわなくなっていた。  その小肥《こぶと》りの赤ら顔には、精気はあふれていたものの、それも人生の夕焼けの残照なのかも知れなかった。金縁《きんぶち》の眼鏡《めがね》は、髪《かみ》や口髭《くちひげ》の中にまじった銀線と、おだやかな調和を示していたが、その底に光る眼光は、時に温和に、時に烱々《けいけい》と輝《かがや》いた。  警視庁|捜査《そうさ》一課主任、高島|竜二《りゆうじ》警部である。  十年前——やはり二人は、こうしてテーブルをはさんで坐《すわ》っていた。上海《シヤンハイ》総領事館の一室で。  当事、高島警部は、|霞ケ関《かすみがせき》切っての偉材《いざい》といわれた、白川武彦総領事の下で、領事館警察司法主任の地位にあった。そして、上杉弥生は、彼の取り調べを受ける立場にあった。  終戦後、上海からひきあげて来た弥生は、その成熟した肉体から発散する、日本映画にはかつてなかった、女の魅力《みりよく》と、見ちがえるほど、幅《はば》と奥行《おくゆき》とを増した演技力とで、一躍《いちやく》天下の人気をあつめ、大スターの列に連なったが、十二、三年前には大部屋《おおべや》俳優から、ちょっと頭を出したくらいの女優にすぎなかった。銀幕から、その名が消えても、誰《だれ》一人、注意を払《はら》う者もなかったくらいであった。  上海《シヤンハイ》にわたった弥生は、ダンサーになった。高島警部は、麻薬《まやく》密売の嫌疑《けんぎ》で、弥生をとりしらべたのである。  その時、彼女はオドオドしていた。今にも泣き出さんばかりに、眼を伏《ふ》せ、下唇を噛《か》みしめながら、一言一言、ポツリポツリと、警部の質問に答えていた。  証拠《しようこ》は何も上がらなかった。ただ、釈放されて、総領事館を出て行く、その後ろ姿を見たときに、彼は黯然《あんぜん》としたのである。  この女の行末もこれできまった。  と思ったのだ。  だが、運命の女神は、この深淵《しんえん》で、初めて弥生に笑顔を見せた。弥生が上海の在留|邦人《ほうじん》の中でも、屈指《くつし》の財産家といわれた、天野憲太郎と、結婚《けつこん》して、人々をアッといわせたのは、その後間もなくのことである。  終戦後、あらゆる地盤《じばん》を失って、上海から引きあげた高島竜二は、幸いにも、警視庁に就職出来て、どうやら家族七人の生活を支えることは出来た。  十年ぶりの邂逅《かいこう》に、彼は時の流れを感じないではおられなかった。さっき有楽町《ゆうらくちよう》の駅で出あった時も、弥生は彼を忘れていなかった。なごやかな微笑《びしよう》をたたえて、彼をこの店へ誘《さそ》ったのだ…… 「高島さんは、ちっともおかわりになりませんのね」 「かわりたくってもかわれないんですよ。所詮《しよせん》、雀《すずめ》は百までですね。警察官として以外、私は能のない男です。中学を卒業してから、私はずっと、領事館警察官としてたたき上げて来ました。でも、三十余年の生活に、私は誇《ほこ》りをもっています。出来るなら、息子《むすこ》もこの職業につかせたいと思うくらいです」 「お気にさわったら、御免《ごめん》下さいまし。決して、軽蔑《けいべつ》とか何とかいう意味で、申し上げたんじゃございませんのよ。十年前と、あなたが少しもおかわりになっていられなかったんで、わたくし、とても嬉《うれ》しゅうございました。あの時、あなたに助けていただかなかったら……こう思うと、わたくし身震《みぶる》いがするくらいですの」 「許すも許さぬもありません、あなたに、罪はなかったんです」  弥生は恥じらうように眼《め》を伏《ふ》せた。一瞬《いつしゆん》、ためらった後に、ひくく甘《あま》えるような声で、 「でも、あの時、もっと意地の悪いお方の手にかかっていたら……と思うと、私もゾッとせずにはおられませんの。どっちにせよあなたは、わたくしにとっては再生の恩人ですわ」 「とんでもありません。私は、自分の職務をはたしただけ、あなたはご運がよかったんです」 「でも、わたくしは、さっきあなたにおあいした時、ハッと思いましたの。また、高島さんにお目にかかれた——これでわたくしも、もう一度助けていただけるかも知れないと考えました。それで、お忙《いそが》しいところをご無理に、おさそいしたというわけなんですわ」 「何をおっしゃる。今のあなたには、もう私の助けなど、必要じゃないはずと思いますが」 「でも、主人は、あなたのお言葉なら、聞きいれてくれるかも知れませんもの」 「ご主人が——? どうなすったんです」 「つまらない実験にこり出して。降霊術《こうれいじゆつ》なんですのよ」  警部にも、この一言《ひとこと》は意外であった。 「降霊術というと、暗闇《くらやみ》で夜光|塗料《とりよう》をぬった人形がおどったり、霊媒《れいばい》が縄《なわ》ぬけをしたりするというやつですか。あんなインチキなくせものに、天野さんが、夢中《むちゆう》になっておいでですか」 「でも、ちょっとちがいますわ。死人の亡霊《ぼうれい》をよび出して、あの世との通信をするんですのよ」 「ほっときなさいよ。罪のない悪戯《いたずら》だと思えば、それでいいじゃありませんか」  警部は笑い出したかったが、弥生はだんだんヒステリックになって来た。 「そんなことをおっしゃいますけど、その度《たび》に、お前は間もなく殺される。恐《おそ》ろしい死に方をする、などたえずいわれては、わたくしだっていやになりますじゃございません」 「霊媒《れいばい》が、そんな馬鹿《ばか》なことをいうんですか」  警部も思わず興奮して、「光」の吸いさしを灰皿《はいざら》の上でもみくしゃにした。 「そいつは、ちょっとひどすぎますなあ」 「でございましょう。それで、あなたにお願いしたいのは……」 「でも、それだけじゃあ、霊媒を捕《つかま》えるわけには行きますまい。脅迫罪《きようはくざい》かな。それとも詐欺《さぎ》になるかしら……」 「いいえ、そこまでしていただかなくても、よろしいんです。ただ一度、その実験にご出席願えません? そして、それとなく、主人と霊媒に、釘《くぎ》をさしておいていただけません? 警視庁におられるあなたのお言葉でしたら、大分きき目もございましょう」 「承知しました。機会を見て、そう申しておきましょう。もし、そんなことが信用出来るものだったら、われわれもたちまち失業しますからな。殺人事件が起こったら、被害者《ひがいしや》の霊魂《れいこん》をよび出して、誰《だれ》に殺されたかと聞けばいいわけです。これがズバリとあたったら、こちらも死活の問題です」  警部の言葉に、いくらか気もかるくなったのか、 「では、万一わたくしが、殺されるようなことがありましたら、犯人の名前を申しあげて、あなたに手柄《てがら》を立てていただきますわ。これが幽霊《ゆうれい》のご恩返しよ」  弥生も冗談《じようだん》をいって笑った。 「実はこの十一日に、熱海《あたみ》の別荘《べつそう》で、降霊術《こうれいじゆつ》の実験がございますの。おいでになっていただけません? 善は急げ——と申しますから」 「十一日……熱海ですね」  警部は一瞬《いつしゆん》困ったような表情を浮《う》かべた。 「日曜日ですね。突発《とつぱつ》事故が起こらなかったら」  二、三分してから、彼はうなずいた。 「まあ、嬉《うれ》しい。それじゃあ、お願いいたしますわ。土曜日から、お泊《と》まりがけで、いらっしゃって下さいましね。自動車でお迎《むか》えに参ります。ぜひごいっしょに参りましょう」 「でも、その前に一度電話をして見て下さい」 「承知しました。ねえ、高島さん、これからも旧交をあたためて下さいましな」  旧交というべきほどの交わりが、二人の間にあったかどうか、警部はちょっと不審《ふしん》に思った。  二人はやがて店を出た。手をふって、七色に輝《かがや》く夕焼けの下を、急ぎ足に、日比谷《ひびや》の方へ数寄屋橋《すきやばし》をわたって行く弥生の後ろ姿を、警部は静かに見送っていた。  ——あの女は、いま人生の真昼を楽しんでいる。短くなった、足下《あしもと》の影《かげ》にさえおびえている。しかし自分には、これから後の生涯《しようがい》には、この美しい夕焼けの一瞬《いつしゆん》さえ残っているだろうか。  思いに沈《しず》みながら、彼は人波に呑《の》まれて行く、黒いオーバーの影を見送っていた。  それが、高島警部にとっては、生きている上杉弥生の姿を見た、最後の瞬間《しゆんかん》であった。     2  忙《いそが》しさにまぎれて、高島警部は、降霊術《こうれいじゆつ》実験の約束《やくそく》を忘れていた。死者の霊魂《れいこん》をよび出すよりも、現実の世に残っている死体の方が、彼には、はるかに緊急《きんきゆう》な問題だった。  天野憲太郎からは、鄭重《ていちよう》な招待状がとどいた。十日の朝には、弥生から電話で出席をうながして来た。  幸いに、これという事件もなかったので、彼は出かけましょうと答えたのだった。  約束の通り、十日の夜七時に迎《むか》えの自家用車は警視庁にとどいた。  運転しているのは、天野家の遠縁《とおえん》にあたっている、金田|晴信《はるのぶ》という青年であった。皮のジャンパーに、紺《こん》のズボン、身なりはあまりよくなかったが、顔は近ごろの女に好かれそうな、苦味《にがみ》走った、彫《ほ》りの深い、野性的な感じだった。 「天野さんは」 「熱海でお待ちでございます」 「奥《おく》さんは」 「一足、遅《おく》れていらっしゃるそうで、明日《あす》はおつきでございましょう」  何となく、不安な気持ちに襲《おそ》われながら、警部は五一年型ビューイックにのりこんだ。 「お寒うございますから、ウィスキーでも召し上がっておいて下さい」  走り出した車の中で、警部は上海《シヤンハイ》以来初めての、ジョニイウォーカーの、芳醇《ほうじゆん》な舌ざわりを楽しんでいた。  大して動揺《どうよう》もなく、車は京浜《けいひん》国道から横浜をすぎ、江《え》の島《しま》から湘南《しようなん》ドライヴウエイを、一路西へ西へと疾走《しつそう》して行った。  思わずグラスの数を重ねたウィスキーが、かすかな体の振動《しんどう》につれて、こころよい酔心地《よいごこち》となって、警部の頭に上って来た。ウトウトと、警部は眠《ねむ》るともなく、目ざめるともなく、車の動揺に身をまかせていた。  いつの間にか、車はとまっていた。目を開いた警部が、窓ガラスをハンカチで拭《ふ》いて、外をのぞいて見ると、あたりは人家の燈《あかり》も見えぬ、人通りもない道だった。 「どうしたのかね」  警部は車を降りて、後ろに廻《まわ》っている青年にたずねた。 「何でもありません。ちょっとした故障です。すぐ直りますから」  警部はふたたび、車のクッションに身を埋《うず》めた。時計はちょうど、八時二十分をさしていた。  十分たっても、青年は、運転台に帰って来なかった。イライラしはじめた、高島警部はもう一度、窓から外をうかがって見た。  闇《やみ》の中に、二つの黒い人影《ひとかげ》がたたずんでいる。赤い煙草《たばこ》の火が、スーッと暗闇《くらやみ》に弧線《こせん》を描《えが》くと、二人は車に近づいて来た。 「お待たせしました。もう直りましたから。それから、このお方を、途中《とちゆう》までいっしょに乗せて行っていただきたいのですが……」 「どなた——?」 「平塚《ひらつか》警察署の大宮です。ちょっと今晩、殺人事件がありまして、連絡《れんらく》のために、湯河原《ゆがわら》まで行かなければならないものですから、ご一緒《いつしよ》に願えればありがたいと思いまして」 「ああ、そうですか。私は警視庁の高島です。私の車ではありませんが、どうぞおのりになって下さい」  警部は、愛想よく、その男を後ろの座席に坐《すわ》らせた。  車が走り出して十分後、ヘッドライトの白光の中に、非常警戒の警官の姿があざやかに浮《う》かび上がった。  ブレーキをかけて、車をとび降りた金田青年は、何かをその耳にささやいていた。  近づいて来た一人の警官は、扉《とびら》を開くと、警部の方に挙手の礼をしてたずねた。 「警視庁の高島警部どのでいらっしゃいますね」 「そうだよ。何か用事——?」 「いいえ、殺人事件がありましたので、警戒《けいかい》をしております。お二人ですね」 「ああ、二人だよ」 「失礼しました。お気をつけておいで下さい」 「いったいどんな事件ですか」  車がふたたび走り出したとき、警部はとなりの男にたずねた。  三十前後の顔の青い、眼《め》のするどい、どことなく精悍《せいかん》な感じの男であった。地方警察の刑事《けいじ》などには、よくある型だと警部は思った。 「大した事件じゃないんです。平塚でも、相当の資産家といわれている、後藤三平という男を殺して、十万円ぐらい持って逃《に》げたという事件ですよ」  相手はポツリポツリと答えた。 「それで、犯人の目星はついているんですか」 「ガンはあります。被害者《ひがいしや》の甥《おい》の、後藤進吉という男が、どうも臭《くさ》いというわけです。湯河原に住んでいるんですが、それで私が連絡《れんらく》に行くことになったんです」 「実際、近ごろの若いものはとんだことをしでかしますね。私はむかしかたぎの人間ですから、そう思うのかも知れませんが、むかしは泥棒《どろぼう》にも、三分の仁義《じんぎ》がありましたよ。金さえやれば命までとるとはいわなかった……」 「戦争のおかげで、脳髄《のうずい》のどこかに狂《くる》いが出来たんですよ。本人は、それでいて、ちっとも悪いことをしたとは思っていないんです」  男はひくくつぶやいていた。その時、運転台でハンドルを握りしめていた、金田青年が、思い出したようにいい出した。 「実際、その平塚の殺人なんて、馬鹿《ばか》なことをしたもんですね。どうして、最近の若い者は、そんなに簡単に人を殺すんでしょう」 「全く、今日の殺人、あの人殺しも、馬鹿げたこととしか思えないね。最近の若い者は、どうして、あんなに簡単に人を殺すんだろう」  相手は、おうむ返しのように答えた。  小田原《おだわら》から、車は下田街道《しもだかいどう》に入り、大小あわせて二百五十というカーブの道を、寒風をついて矢のように走った。  湯河原の町で、男は警部にあつく礼をのべて、車からおりた。  警部も、やっとのことで、胸の上にのしかかっていた圧迫《あつぱく》を、はらいのけたような思いであった。  木の間から、海に映ずる、熱海の街《まち》の灯《ひ》が見えて来た。二度の大火で、町の大半が焼きつくされて、新開地のような形相《ぎようそう》を呈《てい》しているとはいっても、層々と、山までのび上がって行く、星座のような街の夜景は、高島警部に何となく、香港《ホンコン》の夜を思い出させた。  伊豆山《いずさん》、熱海、来宮《きのみや》——と、車は、湯の香《か》ただよう、町の中を突《つ》っ切って走った。  来宮神社のほとり、熱海|随一《ずいいち》の別荘街《べつそうがい》といわれる西山の、宏荘《こうそう》な一軒《けん》の洋館の前で自動車はとまった。  ——青山|荘《そう》——  銹《さび》をふき出した、青銅の表札《ひようさつ》が、うす暗い門燈《もんとう》の下、チラリと警部の眼《め》に映った。 「やっとつきました。大変|遅《おそ》くなって申しわけありません」  自動車の扉《とびら》を開いた、金田青年の顔は、疲労《ひろう》と、寒さと、緊張《きんちよう》とをあらわして、青白かった。  高島警部が通された、応接室の煖炉《だんろ》の上におかれた時計は、十時を十分すぎていた。  待つほどもなく、天野憲太郎が姿を見せた。銀色の頭髪《とうはつ》、落ちくぼんだ両眼両頬、生気なくたるんだ皮膚《ひふ》……かつての上海《シヤンハイ》時代の彼を知っている、高島警部には、それは生きている亡霊《ぼうれい》としか思えなかった。 「やあ! 高島さん、久しぶりだなあ。あなたとは、六年ぶりになりますか」 「ご無沙汰《ぶさた》しました。何しろ、ひきあげて参りまして以来、貧乏暇《びんぼうひま》なしで、ついどちらにも義理をかいております」 「お忙《いそが》しくって結構と申し上げたいが、あなたのお仕事は、あんまりお忙しくない方が、結構ですな。まあ、おかけ下さい」  警部はすすめられるままに、椅子《いす》に腰《こし》をおろした。そしてあの豊満な、弥生の肉体と、眼前の夫の老い方とをくらべて、何かわびしい気分にさえ襲《おそ》われた。 「弥生は、あなたと一緒《いつしよ》じゃなかったんですね。自動車でおともすることとばかり思っていましたが……」 「何かご用事で、どこかにおよりになるようなお話でした」 「あれの用事はわかっています。誰《だれ》かと恋《こい》をささやいているのでしょう」  自分をしいたげるような言葉をポツリと口からもらして、彼は眼《め》を伏《ふ》せて煖炉《だんろ》の焔《ほのお》を見た。 「でも、奥《おく》さんにかぎってそんなことは……」 「気休めをいって下さいますな。高島さん、老いたりといえども、天野憲太郎は、まだ事実に直面する勇気を失ってはいないつもりです。町内で知らぬは亭主《ていしゆ》ばかりなり、とはいいますが、あれの素行《そこう》は、誰《だれ》よりも、私が一番よく知っておりましょう」  高島警部は、言葉をつづけるのにしのびなかった。ただ黯然《あんぜん》と眼をそらした。 「私が、あれと結婚《けつこん》したのは、もちろん愛情からのことでした。しかし、憐《あわ》れみの気持ちがなかったともいいきれません。若さこそありませんでしたが、あの時の私には、弥生を満足させるだけの富と地位とがありました……そして、それを彼女は、求めてやまなかったのです。上海時代の私たちは、平和でした。幸福でした。弥生は、天野憲太郎夫人といわれることに、心から満足していました……」  言葉を切った、天野憲太郎は、立ち上がって壁《かべ》の戸棚《とだな》から、ブランディの壜《びん》をとり出して来た。  警部が手をふって、辞退するのにもかまわず、彼は警部の前のグラスに、酒をついだ。そして、席にかえると、自分のグラスには、唇《くちびる》もふれずに言葉をつづけた。 「その当時は、それでよかったのです。今は万事が逆転しました。日本へ帰ってからの私は、もうむかしの私ではありません。物資を左右に動かしたり、株を買ったり、一応の金は作って来ましたが、今となっては、弥生の映画の出演料の、その何分の一にも及《およ》びません……世間では、私のことを、天野憲太郎とよんではいないのです。上杉弥生の夫——そこまで私も落ちぶれました。まるで、チャタレイ夫人の夫とよばれるような気がします」 「でも……奥《おく》さんはまだあなたを……愛しておられるのでしょう」 「愛——? そんなもの……」  彼は、自嘲《じちよう》のように笑った。 「あれに残っているものがあるとすれば、それこそ憐《あわ》れみの感情だけでしょう。もうあなたがお働きになることはないのよ……と弥生はいいます。思いがけない、自分の成功に陶酔《とうすい》して……しかし、ほんとうならいいたいのでしょう。そのお年で、そのお体で——とね。考えようによっては、これもずいぶん残酷《ざんこく》な言葉です。だが私は、まだ髪結《かみゆい》の亭主《ていしゆ》になりたくはありません。コキユとして甘《あま》んじたくはありません……」 「…………」 「あなたは、私が降霊術《こうれいじゆつ》などに興味を持った心理を、不思議だとお考えになるかも知れませんね……でも、私には、この世に希望が残されてはいないのです。弥生と離婚《りこん》する——そのような簡単な解決さえ、行動に移すだけの自信もありません。前の妻は貞節《ていせつ》な女でした。私は、ひとり無限の空間の彼方《かなた》から、そのよび声を聞きたいのです……」  天野憲太郎は瞑目《めいもく》した。幽冥界《ゆうめいかい》からのおとずれのように、はげしい風が、その一瞬《いつしゆん》、窓のガラスをたたいてすぎた。 「お疲《つか》れでしょう。つまらぬ老人のくり言に、おつきあい願って申しわけありません。温泉にでも入ってゆっくりお休み下さい……」  彼は手をのばして、壁《かべ》のベルをおした。 「この家にも、チャタレイ夫人の恋人《こいびと》は来ておりますよ」  女中のあらわれる一瞬前、彼はポツリとつぶやいた。そして警部が部屋《へや》を出るまでそのままの姿勢で、煖炉《だんろ》の炎《ほのお》に眼をおとして坐《すわ》りつづけていた。     3  翌朝の九時すぎに、二階から階段をおりて行った、高島警部は、階下から聞こえて来る、ひくい会話に、ハッとして途中《とちゆう》の踊場《おどりば》に足をとめた。 「上杉が来ないって、そんな馬鹿《ばか》な……彼女はいままで一度だって、ロケに遅《おく》れたことはないんだぜ」 「でも、来ないものは仕方がないでしょう。いったいどうしてくれるんです。宿屋では、三十人近くの人間が待ちくたびれですよ」 「そんなことをいったって、おれは知らん。まさか、首に縄《なわ》をつけて、ひっぱり廻《まわ》しているわけじゃあねえからなあ」 「僕《ぼく》は、そんなことをいっちゃいません。ただこの映画の責任者として、マネージャーである、あなたの責任をおたずねしているわけです」 「無茶いうなよ。松前君、おれはマネージャーとして、契約《けいやく》の交渉《こうしよう》にはあたる。出演料をきめる。そこまでは、たしかにおれの責任さ。しかし女房《にようぼう》でもねえ女を、二十四時間、見はりをしているなんて出来るもんか。自分でも承知している、約束《やくそく》の日に、ロケにあらわれねえなら、それはあの女の責任だよ」 「そんなことをいっても困りますよ。どうしても、今日|明日《あす》中に、熱海のロケを終わらないと、封切《ふうぎ》りに間にあわないんだ。損害|賠償《ばいしよう》ものですよ」 「損害賠償なら、亭主《ていしゆ》にそういうがいいさね」 「そんなことをいったって」 「またあの山本とでも、イチャついているんじゃねえか。東京へ電話でもかけたらどうだ」  突然《とつぜん》会話はプツリと切れた。やくざのような、下卑《げび》たふとい声が、たちまち温和な猫《ねこ》なで声とかわって、 「天野さん、お早うございます」  意を決した警部は、わざと、スリッパの音を高くひびかせて階段をおりた。  下のホールには、和服姿の天野憲太郎、映画雑誌のグラビアで、高島警部も何度か顔を見たことのある、四十一、二の剃刀《かみそり》のようにするどい感じの監督《かんとく》、松前明、そしていま一人、八角の縁無《ふちなし》眼鏡《めがね》をかけた、色白小ぶとりの四十五、六の男が立っていた。 「ああ、高島さん、お目ざめでしたか」  呼びかける憲太郎の声には、どことなく生気がなかった。 「ご存じですか。こちらは松前明君、こちらは家内のマネージャーをしている、日高|晋《すすむ》君です。こちらは警視庁の高島警部」  一礼したかしないうちに、日高晋は早くも切り出していた。 「ちょうどいい。この警部さんにお願いしたらどうだ。なあ、松前君」 「何をです」 「上杉弥生、失踪《しつそう》行方《ゆくえ》調査の件をさ」  主人も、松前|監督《かんとく》も、とたんにサッと色をかえた。 「おあいにくさま。私は捜査《そうさ》第一課におりますので、強盗《ごうとう》殺人以外はあつかいません。ちょっと係がちがいますなあ」  高島警部はかるく外《はず》した。 「いけません。警部さん、そんな官僚《かんりよう》根性を出すもんじゃありませんぜ。係がちがうとおっしゃるのは、そりゃお役所のきまり文句にゃ、ちがいありますまいが、お智恵《ちえ》ぐらい、拝借したいもんですな」 「それにしても、全然足どりも分からなくっちゃあね」 「昨夜、この家へあらわれたことはたしかですよ。ただ今朝《けさ》は、どこにも行方が知れないんです」  松前明は、突然《とつぜん》思いつめたようにいい出した。 「弥生が……あれが家へ帰って来た……そんな、そんな……」  どうしたのか、天野憲太郎の顔は、幽霊《ゆうれい》のように青ざめていた。 「どうして君は、そんなことをいうんだ。何か証拠《しようこ》があるというのか」  日高晋も、太いパイプを両手でぐっとねじってたずねた。 「僕《ぼく》は、何も知りません。ただお手伝いさんがそういっていたんです」 「何といったって」 「昨夜、奥《おく》さまの部屋《へや》には、たしかに奥さまがお休みになりました——とね。寝台《しんだい》のシーツには、人の寝《ね》たあとがあったし、灰皿《はいざら》には奥さまご愛用の、クールという煙草《たばこ》の吸殻《すいがら》が何本もつっこんであった。台所の戸棚《とだな》の中からは、ハムとパンが半|斤《ぎん》ぐらいなくなっていたし、離《はな》れの湯殿《ゆどの》では、二時ごろ、お湯を使われる音がした、といっていますが、これだけ揃《そろ》ったら、証拠は十分すぎるじゃありませんか」  天野憲太郎の顔には、明らかに疑惑《ぎわく》の色がただよっていた。 「そういえば、私もちょっと妙《みよう》なことに気がついたんです。高島さんに昨夜さしあげたブランディ……あなたも召し上がらなかったし、私もほとんど手をつけませんでした。それなのに、今朝あの瓶《びん》は、ほとんど空《から》になっていたんです」  警部はわけの分からぬ身ぶるいを感じた。 「お部屋《へや》を拝見させていただけませんか」  天野憲太郎は、お手伝いをよんでいいつけた。 「奥《おく》さんの部屋をあけてさしあげてくれ。皆《みな》さん、私は書斎《しよさい》におりますから」  弥生の部屋は、長い廊下《ろうか》をへだてた離《はな》れにあった。化粧室《けしようしつ》と浴室のついた寝室《しんしつ》と、居間の二部屋——どちらも、十二|畳《じよう》ぐらいの大きさだった。 「これは何です」  居間に入るなり、警部はたずねた。その床《ゆか》の上には、長さ一メートル、高さ幅《はば》ともに五十センチぐらいの支那鞄《しなかばん》が二つ、横たわっていたのである。 「ロケ用の衣裳《いしよう》が入っているんでしょう。昨夜|遅《おそ》く会社のトラックが運んで来ましたから」 「そうですか」  警部はそれ以上、何ともたずねなかった。華《はなや》かな女優生活を思わせる、豪華《ごうか》な部屋の飾《かざ》りつけに、チラリと一瞥《いちべつ》を投げると、寝室の中に足をふみ入れた。  お手伝いの証言通りだった。シーツは、寝乱《ねみだ》れたままになっていた。煙草《たばこ》の吸殻《すいがら》も、テーブルの上のパン屑《くず》も、化粧室《けしようしつ》の濡《ぬ》れたタオルも、誰《だれ》かが、この部屋《へや》で、何時間かの時間をすごしたことを暗示していた。  湯槽《ゆぶね》の中は空《から》だった。  洋服|箪笥《だんす》には鍵《かぎ》がかかっていた。別に、自殺を暗示するものもなかった。  ブツブツいいながら、松前明と日高晋は、新映映画のロケ隊が泊《と》まっている、相模屋《さがみや》ホテルの方へかけつけて行った。  警部は、二階の自分の部屋に帰って来て、読書にその日の一日をすごした。彼はまだ、この時は、上杉弥生の失踪《しつそう》に、それほど重大な意味を感じていなかったのである。女優としての気まぐれか、それとも自分の存在を、監督《かんとく》はじめ関係者に、深く印象づけようとするお芝居《しばい》かと、それぐらいに軽く考えていたのであった。  警部が事の重大さを、ほんとうに自覚し出したのは、その日の夕食後のことである。  上杉弥生は、その日一日、ロケーションには姿を見せなかったのだ!  金田青年に食ってかかった、松前明と日高晋は、昨日《きのう》の四時、弥生を新宿《しんじゆく》駅で自動車から降ろしたという、最後の手がかりを得た。だがそのあとの足どりは、依然《いぜん》として知れなかった。  夕食の席には、新しく二人の人物が加わった。東京からやって来た、白髪白髯《はくはつはくぜん》の霊媒《れいばい》、川島|玄斎《げんさい》と、新劇俳優で、最近知性を持った二枚目として、映画にも進出し、メキメキと売り出した、山本|譲治《じようじ》である。 「ねえ、松前君、奥《おく》さんがおいでにならなくっちゃ、われわれがこうして、ご厄介《やつかい》になっているのも申しわけない話だ。今晩から、ホテルへ引きあげようじゃないか」  日高晋は、聞こえよがしにいった。 「ご窮屈《きゆうくつ》でしたら、別におひきとめもいたしませんが……」  天野憲太郎は、つめたく答えた。  高島警部は、食卓に流れる、無気味な空気に、空恐《そらおそ》ろしい思いを禁じ得なかった。  天野憲太郎、松前明、日高晋、山本譲治、川島玄斎……この人々は、みな何気ない顔をして、黙々《もくもく》と食卓《しよくたく》に坐《すわ》っている。おそらくは、その中に、弥生の行動の真相を知っている人物があるには違《ちが》いないのだが、誰《だれ》一人、それを口走ろうとする者もない……  警部の頭の中には、その時恐ろしい考えが閃《ひらめ》いた。 「川島さん、あなたの降霊術《こうれいじゆつ》は、ほんとうに信用出来るものですか」  霊媒は、ピクリと白い眉《まゆ》をあげた。 「信じないお方には分かりますまい」 「私は、もともと無神論者でしてね」 「お気の毒なお方ですな。あなたの霊魂《れいこん》は救われませんぞ」 「明日《あす》をも知れない人生です。死後の世界のことなど憂《うれ》うるにあたりません。でも、もしあなたが、私の不明を啓発《けいはつ》して下さるおつもりなら、今晩、私の指定する、亡霊《ぼうれい》をよび出してもらいたいのです」  年よりか、若いのか分からない、この霊媒《れいばい》は悠々《ゆうゆう》白髯《はくぜん》をしごきながら、 「承知しました」  と答えた。  九時すぎて、人々は青山|荘《そう》の一室に、円いテーブルをはさんで会した。ただ弥生の椅子《いす》だけが、歯車の歯のぬけたように空いていた。燈《あかり》が消えた。漆《うるし》のような暗闇《くらやみ》の中、羽虫の翅《はね》のひびきのような、霊媒のかすかな呪文《じゆもん》が流れはじめた。聞こえるか、聞こえないかのその声は、次第次第に興奮の度を加え、破《わ》れ鐘《がね》のように部屋中に鳴りひびいた。 「高島さん、霊魂《れいこん》の名を呼んで下さい」  警部の右|隣《どなり》に坐《すわ》っている、天野憲太郎がささやいた。 「上杉弥生……上杉弥生……」  高島警部は、決然とこの女の名を呼んだのである。  呪文《じゆもん》の声が、パタリとやんだ。太古のような沈黙《ちんもく》がその後につづいた。声もなく、衣《きぬ》ずれの音さえ聞こえぬ深い静寂《せいじやく》。  かすかに聞こえる声があった。すすり泣き、むせび泣きにも似た、男とも女とも分からぬ声が聞こえて来た。 「誰《だれ》……わたしの名をよぶのはどなた……」 「私です。警視庁の高島竜二です。奥《おく》さん、私とのお約束《やくそく》をはたしていただけますか」 「どんな……お約束……」 「あなたは生きてはいませんね。いま幽冥界《ゆうめいかい》の彼方《かなた》をさまよっているわけですね」 「はい……わたしは、たしかに殺されました……」 「その死体は、どこにあるのです、亡骸《なきがら》はどこに残っているのです」 「この家です……わたしの部屋《へや》の、洋服|箪笥《だんす》の中なんです……」 「その犯人は」 「…………」 「あなたを殺したのは誰《だれ》なんです」 「…………」  沈黙《ちんもく》の中に、かすかなすすり泣きが、長く尾《お》をひいて残っていた。 「燈《あかり》を! 燈を!」  誰《だれ》かの叫《さけ》ぶ声がした。椅子《いす》を蹴《け》って、立ち上がる音が聞こえて来た。と見る間に、天井《てんじよう》のシャンデリアは、色青ざめて坐《すわ》っている、人々の顔を照らし出した。  スイッチを入れたのは、金田晴信であった。天野憲太郎は、苦しそうに、胸のあたりをおさえている。日高晋は、警部の視線を恐《おそ》れるように顔を伏《ふ》せると、ハンカチにはげしく咳《せき》こんだ。川島|霊媒《れいばい》は、口を大きく開けてしまって、呆然《ぼうぜん》自失の態《てい》だった。  誰《だれ》一人、生色のある者はない。誰一人、動き出そうとする者はない。  数分後、初めて山本譲治が口を開いた。 「警部さん……これはいったい……何というお芝居《しばい》です……失礼な……僕《ぼく》はこれで……」 「お待ち下さい……」  警部はするどく言い切った。 「この部屋《へや》から、出て行かれるのはご随意《ずいい》ですが、後で重大な嫌疑《けんぎ》がかかるかも知れませんよ。  私が帰って来るまで、皆《みな》さん、このままになすっておられた方が無難でしょう」  警部は、X線のような視線を、人々の上にあびせかけると、静かに部屋《へや》を出ていった。  一分、二分、時はすぎた。五分、六分……人々は、ロダン作カレーの市民の群像のように、身動き一つしなかった。  十分後、警部は初めて部屋に帰って来た。その面上には、もはや温容はどこにもなかった。彼は私人、高島竜二ではなかった。つめたい法の代表者、警視庁|捜査《そうさ》主任であった。 「皆さん、私は降霊術《こうれいじゆつ》の神秘さを、今夜初めて知りました」  警部の声はするどかった。 「弥生さんは、生前の私との約束《やくそく》を、たしかに果たしてくれました。たしかに、あの人の死体は、あの部屋の洋服|箪笥《だんす》の中に発見されました……」  仮借《かしやく》ない言葉は、さらにつづいた。 「しかし、私は今の言葉が、幽霊《ゆうれい》の言葉だったと信ずるような神秘論者ではありません。あの言葉は、たしかに生きた人間の口から出たものです。上杉弥生殺害犯人は、いまこの部屋に、皆さんの中にいるのです!」     4  動かざること林のごとく、来《きた》ること風のごとし——高島警部は、日ごろ愛誦《あいしよう》する一句を、口の中でかみしめながら坐《すわ》っていた。  弥生は絞殺《こうさつ》されていた。後頭部には、鈍器《どんき》の一撃《いちげき》のあとが残っていたが、それは致命傷《ちめいしよう》というほどのものではなく、昏倒《こんとう》させる程度のものにすぎなかった。兇行《きようこう》の推定時間は、二十四時間前——敢《あえ》て解剖《かいぼう》を待たなくても、警部は自分の眼《め》に一時間と狂《くる》いがあるとは思えなかった。  とすれば、弥生が殺害されたのは、昨夜自分が熱海へ車を走らせている間の出来事にちがいなかった…… 「失礼かは知れませんが、皆《みな》さんに一応おたずねしておきたいのは、昨夜の皆さんの行動なんです……」 「アリバイを立てろ——とおっしゃるのですね」  松前明が、かわいた口をひらいた。 「忌憚《きたん》なく申しあげれば……その通りです」 「私はこの家に泊《と》めていただいております。もちろん弥生さんのご招待です……昨夜は、九時まで、ロケ隊といっしょに宿屋で、今日からかかるはずだった、撮影《さつえい》の準備をしていました。それからこちらへ帰って来て……十一時に、会社のトラックがつきましたから、あの支那鞄《しなかばん》をおろすのを監督《かんとく》して、それから床《とこ》に就《つ》きました……」 「日高さんは」 「七時から十一時まで、糸川の常盤屋《ときわや》という家にいた。朱実《あけみ》という子に聞いてもらえばわかる。糸切歯のきれいな女だったよ」 「川島さんはいかがです。現実世界においででしたか、それとも幽冥界《ゆうめいかい》をさまよっておいででしたかね」 「昨夜はやっぱり、東京で降霊《こうれい》実験がありましてね……淀橋《よどばし》の村松さんという、社長さんのお邸《やしき》で……これなら、何人も証人があるから大丈夫《だいじようぶ》です」 「まさか、あなたの霊魂《れいこん》が、宙をとんで熱海へあらわれて、弥生さんを、しめ殺したんじゃないでしょうね」 「と、とんでもない!」 「あなたの神通力にも、やっぱり限度があるようですね。山本さんは……」  警部は、眼をこの俳優の顔に移してハッとした。その秀麗《しゆうれい》な白皙《はくせき》の顔には、深い言い知れぬ苦悩《くのう》の色が浮《う》かんでいる。 「正式のお取調べだったら、申しあげないこともありません……しかし、公開の席上では、個人の秘密は、守っていただきたいのですが」 「細かなことは別としても、東京におられたか、熱海にいらっしゃっていたか、そのぐらいのことは、おっしゃっていただけるでしょうね」 「一日中……東京でした」  彼は聞こえるか聞こえないか、という声で答えた。 「私はこの二、三日、熱海に来たきりです。一歩も家を離《はな》れません。ですから、この家で弥生が殺されたとしたら、一番|嫌疑《けんぎ》がかかるのは、私ということになりましょうね」  天野憲太郎は、吐《は》き出すような調子で答えた。  熱海警察署の一行が、青山|荘《そう》に到着《とうちやく》したのはこの時である。主任の梶原《かじわら》警部補は、心から高島警部の協力を求めた。 「高島さん、あなたはいったい、どうお考えです。二時すぎに、あの寝室《しんしつ》にいたという人間のことを」  ドリルの仇名《あだな》を持っている、若い梶原警部補は、脳天《のうてん》からしぼり出すような声でたずねた。 「初めは弥生さんかと思っていましたが、その本人が、その前に殺されているとすると、幽霊《ゆうれい》でもあらわれたというわけですかね」 「幽霊がハムサンドを食べたというんですか」 「東京には、米を食う幽霊が二十万人いたそうですがね」  梶原警部補は苦笑した。 「問題は——この家に帰って来た、弥生さんの姿を、誰《だれ》も見てはいないということです。十二時までは、女中も起きていたのですし、表門を開いていたのですから、帰って来たら気がつかないわけはないんです。ところが十二時までは、あの寝室《しんしつ》に入った人間はいないはずなんです」 「鍵《かぎ》は二つありますが、お手伝いが一つあずかって、本人が一つ持っていたそうです。旦那《だんな》さんさえ、持っていないそうですから、こういう夫婦関係も分かりませんなあ」 「人情の機微《きび》は、第三者のあずかり知るところではありませんよ。そのほかには」 「近所の聞きこみは、昨夜の二時ごろ、この家の裏門から入って来た人間があるそうです。男か女か分かりませんが、黒っぽい服装《ふくそう》をしていたそうです。ところが、裏門の錠《じよう》は、お手伝いがちゃんとかけておいたそうですし、今朝もかかっていたそうです」 「すると、誰かこの家にいた者が、その謎《なぞ》の人物をひきいれたというわけですね。ひょっとしたら、お手伝いが男でも……」 「そんなことはないようです。二人同じ部屋《へや》に寝《ね》ていますし、そんなにすれてはいないようです。第一……」 「夫人の寝室《しんしつ》を使うわけはないということになりますね。それから、梶原さん、私は最初から、不思議に思っていましたが、あの死体は毛皮のオーバーを着て、外出の服装《ふくそう》を整えているのに、足は靴下《くつした》だけですね。自分で、この別荘《べつそう》へやって来たとなると、靴はどういうことになりましょう」 「別荘にも、夫人の靴はありますが、それが増えてはいないんですよ」 「幽霊《ゆうれい》には足がない——というわけですね」  高島警部は沈黙《ちんもく》した。彼には、一つ大きな疑問が、さっきから頭の中にこびりついて残っていたのである。 「梶原さん、一つご忠告を申し上げたいんですが……」  彼はひかえ目に口を切った。 「何なりとうかがいますよ。私は、自分一人で功名を立てたいなどと思ってはおりません。犯人さえ捕《つかま》ってくれればそれでいいのです」 「私は今朝《けさ》、夫人の居間まで入って見ました。そしてあの二つの支那鞄《しなかばん》にさわって見ました……」 「それが……」 「一つは重くて動きもしませんでしたが、一つはまるで何も入っていないような感じでした。これを積んで来たのは、会社のトラックらしいですが、この支那鞄が、最初はどんな重さだったか、お調べになる必要はありますまいか」  梶原警部補はとび上がらんばかりに驚《おどろ》いた。 「高島さん、あなたはそれじゃあ……」 「いや、私はただ、あらゆる可能性をしらみつぶしに追求して行くだけですよ」 「承知しました。すぐ連絡《れんらく》を出しましょう」  彼は立ち上がって、部屋《へや》から出て行った。  入れかわりに、応接室へ入って来たのは、例の川島|霊媒《れいばい》だった。 「警部さん、私は……その、ちょっと申し上げたいことがあるんです」 「何でしょう。まあ、おかけ下さい」  相手は、椅子《いす》の肘掛《ひじか》けを、グッと両手でにぎりしめながら、しばらく口ごもっていた。夕食の時までの、あの昂然《こうぜん》とした態度は、どこかに影《かげ》をひそめていた。 「警部さん、実はおことわりしておきたいのですが……あの時、あんな言葉を吐《は》いたのは決して私ではないんです」  警部は皮肉な笑いをもらした。 「それはもちろんそうでしょう。あなたは知らず知らずの間に、他人の霊魂《れいこん》の言葉をとりついだだけでしょうね」  霊媒《れいばい》は、大きなハンカチで額《ひたい》の汗《あせ》をふいた。 「いや、そうおっしゃられると、穴があったら入りたい思いですが……あの時は、弥生さんの霊魂が、私にはのりうつっていなかったんです、そこへあんな言葉が聞こえて来たものですから、私もびっくりしてしまって」 「術がやぶれて、人間世界へ舞《ま》いもどったというわけですね。そういえば、あなたのさっきの顔……といったらなかった……ところで、あなたは前にも、弥生さんが殺されるという、霊魂の言葉をささやいたということですね。それにはトリックはないんですか」  霊媒は、とたんに霊気《れいき》をとりもどした。 「警部さん、今度はうまく行きませんでしたが、これで私の降霊術《こうれいじゆつ》の力はおわかりになったでしょう。神秘疑うべからず——です。つまり、私は今度の殺人事件のことを、あらかじめ予言していたというわけですね」 「嘗《な》めるな」  警部は、つめたい怒《いか》りを爆発《ばくはつ》させた。 「いわせておけば、どこまでつけ上がるつもりだ。法廷《ほうてい》では、そんな寝言《ねごと》は通用しないぞ」 「法廷——?」  相手は顔色をかえていた。警部は、指の関節をポキポキいわせながら言葉をつづけた。 「貴公《きこう》は誰《だれ》かにたのまれて、弥生さんを脅迫《きようはく》していたろう。いわずと知れた、今度の事件の犯人に——だ。情を通じて、殺人の行為《こうい》を助けた罪を殺人|幇助《ほうじよ》という。刑法《けいほう》ぐらいは研究しておけ。貴公、刑務所《けいむしよ》には、何度行って来た」  霊媒《れいばい》は、とたんに震《ふる》え上がってしまった。憐《あわ》れみをこうような、ひくい声で、 「三度です」 「前科三犯か、罪名は」 「詐欺《さぎ》です。株屋の番頭をしていたとき、店の罪を背負って行って来ました。帰って来ると、凱旋《がいせん》将軍のような待遇《たいぐう》を受けるものですから、ついことわりきれなくなって……」 「霊媒をはじめたのは、誰の入智恵《いれぢえ》だ」 「私も最後には、こんなことをくりかえしていては、身の破滅《はめつ》だと思いました。それで、日高さんのところへ相談に行きました。若|白髪《じらが》で、年より老《ふ》けて見えるものですから、あの方が、考えて下さったのが、この商売なんです」 「株屋の上がりでは、口もうまかろうから、うってつけだったな」 「おかげで食えるようにはなりました。甘《あま》いもんです、世間というものは、前科三犯でもちょっとあたると、先生、先生といってくれます」 「それで、弥生さんをおどしていたのは」 「やっぱり日高さんでした。上海《シヤンハイ》当時の、弥生さんの素行《そこう》の暗いかげを知っていて、弥生さんを、おどしていたらしいんです。あのころでも、女一人が食いつめて上海まで流れて行こうとするのは、いろいろの事情もあったでしょう。くわしいことは知りませんが、それをたねにして、強面《こわもて》に出て、マネージャーになることには成功したようでした。しかし、最後のものだけは、どうしても許さなかったようです。それでイライラして、私にあのようなことをいうようおどした、というのが、日高さんの心境じゃありませんか」 「それじゃ、弥生さんの、ほんとうの愛人というのは、誰《だれ》だったんだ」 「分かりません。正直なところ、私には分かりません。世間の噂《うわさ》ほど、あの人の素行《そこう》に乱れがあったとは、私にも思えないんです」  高島警部は沈黙《ちんもく》した。霊媒《れいばい》は、まるで最終判決をうけた時のような、あきらめきった表情で、 「お調べをうけます前に、こうして一切を告白に参ったのは、やっぱり顧《かえり》みて、自分に弱いところがあったからでしょうね……私は、これからどうしたらいいでしょう」 「自分の部屋《へや》に帰りたまえ。そして、今の話はだれにも黙《だま》っていたまえ。君がほんとうに、この事件に関係がなかったら、これから正業につくつもりなら、僕はいまの話を聞かないことにしてもいい」 「警部さんありがとうございました」  喜色をうかべた霊媒は、ていねいにお辞儀《じぎ》をして部屋を出て行った。  警部は沈痛《ちんつう》な気持ちであった。あの階段で立ち聞きした、日高晋と松前明の会話にも、心理的な裏づけが得られなかったような気になった。  それでは、日高晋にも殺意はあったのだろうか。金の卵を生む牝鶏《めんどり》を……梶原警部補が、興奮の色を浮《う》かべて、部屋に入って来た。 「高島さん、図星ですよ! あの支那鞄《しなかばん》は、予想通りでした」 「どうだったんです」 「あの支那鞄は、二つとも、小田急沿線の新映|撮影所《さつえいじよ》へ運ばれて来たものです。一つは、あの金田という青年が、朝のうちに、自家用車でとどけたのだそうです。その時彼は、弥生さんからの言伝《ことづて》だといって、いま一つ、別に荷物をとどけるから、それまで出発を待って欲しいといったそうです。会社では、ブーブーいいながら、七時すぎまで、トラックの出発を待っていたそうですが、その時初めて、もう一つの支那鞄がとどけられたそうです」 「それで……」 「ところが、この鞄は二つとも、四十キロ以上の重さがあったそうです……五十二キロぐらいといっておりましたが、正確なことは分かりません。ただその一つは、すっかり空《から》になっていました……あとの一つは、大体同じ重さでしたから、何の問題もあるまいとは思いますが、それじゃあ、この空の方の支那鞄、七時すぎに撮影所にとどけられた方には……」 「死体が、つめこまれていたのかも知れないね」  警部はひくくつぶやいた。     5  舞台《ぶたい》は今や一転して、東京に移った。高島警部が朧《おぼ》ろに感じていたように、この殺人の現場はやっぱり熱海ではなかったのだ。  山本譲治の姿は、自《おのずか》ら大きくクローズアップされて来る。  秀麗《しゆうれい》な額《ひたい》に、苦渋《くじゆう》の汗《あせ》を浮《う》かばせて、思いがけなく与《あた》えられた主役の位置を、驚《おどろ》くように、彼は告白を始めて行った。 「おそらく、私が生きている上杉さんの姿を目撃《もくげき》した、最後の人物かも知れません……午後五時に、上杉さんは、私の家にたずねて来られたのです……」  五時……運命の時刻の三時間前……新宿駅から普通《ふつう》電車で四十分……新映映画の撮影所《さつえいじよ》から徒歩十五分の彼の家……  警部の胸は高鳴った。もちろん百戦|練磨《れんま》の彼のこと、その表情を面に表すことはしなかったが……  高島警部は、何気なさそうに、煙草《たばこ》をテーブルの上にトントンと叩《たた》きながら、 「何か秘密のご用件でもおありだったんですか。さっきあなたは、えらくそのことを気にしておいでだったようですね」 「別に何でもありません。仕事の上の話をして、六時ごろ帰って行きました。ただ、私は……天野さんの手前、それにふれるのが、何だかお気の毒のような気がしたので……」 「食事でも、いっしょになさったんですか」 「別に……」  といいかけて、彼は質問の意味に気がついたのか、感傷的な調子になって、 「解剖《かいぼう》のお役に立つんですね。あの美しかった肉体に、メスがあてられるというのは、なんだか冒涜《ぼうとく》のような気がしますね」 「やむを得ないことです。絞殺《こうさつ》するよりは冒涜でもないでしょう」 「ちょうど、あの時家には誰《だれ》もいませんでしたから、ありあわせのカステラに紅茶をすすめましたが、一片つまんだと思ったとき、急に時計が六時を打ちました。わたし、もうおいとましなくちゃとあわてて帰って行きましたが……それが私の、あの人を見た最後でした」 「どこへ行くともいわないで……」 「いいえ、これから熱海へ行くんだ、とそういっていましたが」  警部は、煙草《たばこ》の煙《けむり》を天井《てんじよう》へ吹《ふ》き上げながらしばらく考えこんでいた。 「山本さん、はっきり申しあげますと、いまあなたは、非常に重大な立場におかれているのです」  警部の言葉の調子はかわった。重々しく、一言一言、奥歯《おくば》でかみしめて吐《は》き出すように、 「さっきも申しあげたように、この殺人の犯人は、降霊会《こうれいかい》の実際の席に居あわせた人間の中にいるのです。ところが、弥生さんの死体は、七時ごろ、支那鞄《しなかばん》の中につめこまれて、東京の新映映画の撮影所《さつえいじよ》に、運んで来られたと思われる根拠《こんきよ》があるのです」  相手の顔は見る見るうちに、青ざめてしまった。ガタガタと震《ふる》える手で、テーブルクロースの端《はし》をつかんで、彼はあえぐようにいい出した。 「それじゃあ……ここで、熱海で殺されたんじゃなかったんですか」 「私には、どうもそうとは思えないんです」 「すると、私の家を出て、すぐに殺された……というわけですね」 「あなたのお言葉を信用すればそうなりましょうね。実は、上杉さんの素行《そこう》については、生前からいろいろのうわさがとんでおりました。あなたとのゴシップもその一つです。こうなっては、ザックバランに、その真相をおうちあけ願った方が、おためかと思いますが」  山本譲治は、下唇を血の出るようにかみしめていた。 「自衛のため——とおっしゃるのですね。よろしい。お話いたしましょう。信用していただけるかどうかは分かりませんが、あの人と私との間には、全然、何の関係もなかったのです」  警部は空々しい笑いを浮かべた。 「どうぞ、おつづけ下さい」 「あの人が、ご主人、天野さんとの間に、満たされないものがあることは、私にもはっきり分かっておりました。しかし、自分を破滅《はめつ》の一歩手前から救いあげてくれた、という感謝の念は、その不満などを、はるかに越《こ》えていたようです。人は肉体で生きるものでしょう。しかしただ肉体だけで生きるものでもないのです」 「あなたのような年輩《ねんぱい》の方から、そのようなご意見をうかがうとは思っておりませんでした」 「たしかに、その点では、あの人は昔《むかし》かたぎともいえるでしょう。時代にとり残された、貞女《ていじよ》型ともいえるでしょうね、あの人は、その情熱の吐《は》け口を、ひたすら、芸に求めたのです。芸道の鬼《おに》となり切ったのです……」 「それで……」 「藤十郎の恋《こい》、という戯曲《ぎきよく》がありますね。名優坂田藤十郎が、芸道のため、ある女にかりそめの恋をしかける——女は、公衆の面前にあばき出された自分の媚態《びたい》を恥《は》じて自殺するという話が。私は、その意味がよく分かります。あの人も、私をすわという、土壇場《どたんば》まで何度もおしつめて、ヒラリヒラリと身をかわしたものでした」 「失礼ですが、それは先天的な性格から来るものではないのですか。それとも、恋の技巧《ぎこう》とか、媚態《びたい》とか、そういうものではありませんか」 「私も最初はそうだと思いました。だから、最後の一線を踏《ふ》み越《こ》えることが出来なかったときには、無性に腹が立ちました。男の気持ちを踏《ふ》みにじられたという感じ、殺してやろうかとさえ思いました。しかし、あの人が一切をうちあけて、私の許しを求めたときに、私はすべてを、許す気になったのです。卑怯《ひきよう》なことかも知れません。しかし私は、芸一筋に打ちこんでいる、その気持ちを尊いものと思ったのです」 「あなたのお考えは、私にも分かるような気がしますね」  警部は一瞬《いつしゆん》、私人にかえってつぶやいた。 「しかし或《あるい》は、外《ほか》の人が、私のような立場におかれたなら、怒《いか》りをこらえきれなくなったかも知れません。いま少し野性的な男だったら、理智《りち》と情熱のバランスが、ほんの一寸《ちよつと》でも狂《くる》ったら……」  ——そういう君も、男ではないか、と公人にふたたびかえった警部は、心の中でつぶやいていた。  その翌朝早く、警部は金田青年の運転する五一年型ビューイックで、熱海から東京に向かった。上海《シヤンハイ》当時、自由自在に高級車を乗り廻《まわ》していた彼にとって、天野憲太郎の好意は、何よりもありがたかった。 「警部さん。奥《おく》さんは、やっぱり東京で殺されたんでしょうか」  と、吊橋《つりばし》の袂《たもと》でカーブを切りながら、金田晴信はたずねた。ほかには、人もない気やすさと、自分のホームグラウンドにかえる自信とで、警部も初めてゆったりと、煙草《たばこ》を一本ぬき出しながら、 「僕《ぼく》はそうだと思うがね。君は何か、手がかりになるようなことは知らないかい」 「そうですね。別にお役に立つようなこともありますまいが東京だと分かってホッとしましたよ」 「どうしてなんだい」 「万一、天野さんに疑いがかかっては——と、それを心配していたんです。何といっても、私にはあの人は大の恩人です、死んだ奥《おく》さんの身内になっている私を、一応学校まで出してくれ、戦争から帰って来た時も、職がなくって困っているのに、こうして生活の心配もなくしてくれたんですから……いざとなったら、身がわりに立ちたいくらいに思っていました」 「その心配はあるまいね……それは別として、一昨日の夜、奥さんの部屋《へや》に寝《ね》たというのは誰《だれ》だろうね」 「案外、旦那《だんな》さんだったかも知れません。奥さんがおいでにならない時は、よく一人で、あの部屋で過ごしていらっしゃいました。あまりお気の毒で、見ていても、がまんが出来なくなったくらいです」 「ウン」  警部は胸の底を、チクリと刺《さ》されたような感じで、深くクッションに身を沈《しず》めた。  東京|桜田門《さくらだもん》の警視庁へついたのは、九時すぎだった。庁舎の前に、車を待たすようにいいつけると、彼は早速、部下の刑事《けいじ》を八方に走らせた。  山本譲治は、八時ごろまで自宅におり、それから新宿のある酒場で、終電車近くまで飲んでいた——と申し立てた。必要もないとは思ったが、そのアリバイ、それから川島|玄斎《げんさい》のアリバイ、新映映画の撮影所《さつえいじよ》に荷物を運んだ男の人相。山本譲治の家の調査——定石《じようせき》的な捜査《そうさ》の段階である。  山本譲治の家の屑箱《くずばこ》の中からは、紙にくるんだ新しい、女の靴《くつ》が発見された。それはたしかに、その朝弥生がはいて家を出た靴だった。  この情報が入ったとき、彼はわが事成れりと思った。もしも、弥生が、自分で熱海へ行ったのなら、途中《とちゆう》で靴をぬぐわけなどない。もはや大魚は網《あみ》にかかった!  彼は胸をそらして、昂然《こうぜん》と大きな息を吐《は》き出した。もはやこの事件の解決は、時の問題にちがいないのだ。  だが、警部の描《えが》いた解決の夢《ゆめ》も、遂《つい》に崩《くず》れる時が来た。  正午近く、彼は村山|捜査《そうさ》一課長の部屋《へや》によび出されたのである。  村山課長は、廻転椅子《かいてんいす》に九十キロもの巨体《きよたい》を廻《まわ》し、象のような眼《め》を細くしていい出した。 「聞いたぜ」  熱海から電話がかかって来た。 「課長、ご安心下さい、犯人の名は分かっています」 「誰《だれ》だというんだ」 「山本譲治にちがいありません」 「ほう」  課長はグッと身をのり出して、 「理由を説明してくれたまえ」  高島警部は、自信満々と、自分の推理を語りつづけた。だが、意外なことには、課長の眼には、ありありと、失望と落胆《らくたん》の色があらわれて来たのである。 「違《ちが》う」  課長は、ドカリと椅子《いす》に身をそらせた。 「違いますって!」 「違うとも。君はもう半日、熱海におるべきだった……」 「何か起こったんですか」 「いま一つ、死体が発見されたんだよ。顔を滅茶《めちや》滅茶に、叩《たた》きつぶされた男の死体が……」  警部は一瞬《いつしゆん》よろめいた。だが、彼は必死の気力をふりしぼってたずねた。 「その……死体はどこにあったんです」 「いま一つの支那鞄《しなかばん》の中にだよ」 「それじゃあ、それも東京から……」 「そうじゃあるまい。死亡推定時間は、一昨日の夜の二時だ」  警部は思わず、椅子《いす》に腰《こし》をおとさずにはいられなかった。 「私は……私は……間違《まちが》っていたようですね。やっぱり、この殺人は、熱海で行われたんですね……それじゃあ、あの東京から送られた、二つの鞄には、何が入っていたんでしょう」 「一つには、たしかに衣裳《いしよう》や小道具や、便乗して別荘《べつそう》に運ぶ道具が入っていたらしい……家から自家用車でとどけた方だ。だが、もう一つの支那鞄には何が入っていたか分からないんだよ」 「課長」  警部は突然《とつぜん》、とび上がった。 「私をもう一度、熱海へやって下さいませんか。今度こそ、今度こそ、私は犯人の首をとらずには帰りません」 「高島君、焦《あせ》るなよ。あんまり思い詰《つ》めるなよ」  課長は、同情するように言葉をつづけた。 「君が功名心に囚《とら》われていたとはいわないが……君はあんまり、事件をホームグラウンドに持ちこもうと考えすぎていたんじゃないか。功名は誰《だれ》が立ててもかまわないんだ……もう一度、遊ぶつもりで行って来たまえ。それから、例の殺されていた男だが、これは体の特徴《とくちよう》が、平塚で強盗《ごうとう》殺人を働いた、後藤という青年にそっくりなんだ……天野家との関係は全然考えられないが、これだけは頭に入れておきたまえ」     6  高島警部が、熱海へ帰りついたのは、夕方の六時すぎのことである。待ちかまえていた梶原警部補は、青山|荘《そう》の玄関《げんかん》まで飛び出して来た。 「いかがでした。東京の方は」  表門から入ってすぐの車庫へ、金田青年が車をしまっているのを、横目で見ながら、彼はたずねた。 「何だって、てんで話になりません。私の見込《みこ》み違《ちが》いでした。敗軍の将、兵を語らずの心境です」 「とにかく中へ入って、よくご相談をいたしましょう。われわれだって、事の意外に驚《おどろ》いてしまった始末です。決して、あなたの責任じゃありません」  二人は肩《かた》をならべて、応接室に入った。  熱海、東京両方の情報が交換《こうかん》されて、初めてこの事件の全貌《ぜんぼう》は、明るみに浮かび上がって来たのである。  第一に、弥生の死亡時間は、解剖《かいぼう》によってはっきり証明された。一昨日の夜、七時すぎから九時までの間、おそらくは八時前後とのことである。第二には、各容疑者のアリバイであるが、山本譲治、川島玄斎の二人は、八時以後のアリバイは完全に成立した。日高晋、松前明の二人も、ほぼ確実としか思われなかった。天野憲太郎は、自分の部屋《へや》にこもっていたが、はっきりしたことは、誰《だれ》にも分かっていない。  第三には、七時に撮影所《さつえいじよ》に持ちこまれた、支那鞄《しなかばん》の内容であるが、これについては、梶原警部補が、一つ重大な発見をしていた。  彼は苦笑していい出したのである。 「高島さん、これが幽霊《ゆうれい》の入浴の正体だったんですよ。あの幽霊は、体を洗おうと思って温泉の湯槽《ゆぶね》に流していたんじゃありません。支那鞄の目方を軽くしていたんです」 「何ですって!」 「湯槽の底に、かすかに白い粉が残っていました。ふしぎに思って調べて見たら、それは塩——溶けきれなかった、食塩の結晶だったんですよ」 「塩が! 支那鞄の中に……」 「そうなんですよ。犯人は、東京で犯行が行われた、と見せかけるために、最初から塩を支那鞄につめて、誰《だれ》かに撮影所《さつえいじよ》へとどけさせたんです……」  高島警部は、かるい目まいに襲《おそ》われた。それでは、自分が東京へかけつけることは、初めから、犯人の見透《みすか》していたことだったのか。自分はその筋書に沿って行動していただけなのか。 「それじゃあどうして、あの運転手は、最初の鞄をとどけた時、二つめの荷物がとどくことを知っていたんでしょう」 「被害者《ひがいしや》が、犯人に何かいいふくめられていたんじゃありませんか。君の名前で、あとで一つ、荷物がとどくからね——と。そのままの言葉を、運転手に伝えただけじゃありませんか」 「なるほど。それでは鞄の件は」 「山本譲治に、嫌疑《けんぎ》をかけるために、共犯者に支那鞄を運ばせる時、彼の家の屑箱《くずばこ》に、同じ靴《くつ》をほうりこましたら……私も、一度あの撮影所《さつえいじよ》のそばまで行ったことがありますが、あのあたりは、まるで人通りもない、畑のまん中なんですからね」 「そうかも知れません。あのあたりなら、ちょっとやそっとのことをしても、見とがめられる気づかいもありますまい……」  しばらく考えこんでいた警部は、燃えるような目をあげてたずねた。 「それで、殺されていた男というのは」 「いや、われわれも、これにはびっくりしましたよ。まさかあの部屋《へや》に、二つも死体があるとは思っていませんでしたからね。それにあちらの箱の方は、目方も大体あっていたし、運転手も、自分の運んだ方はこちらですというので、手をつけずにほうっておきました……ずいぶん迂闊《うかつ》な話ですが、今朝になって、松前君の方から、どうしても今日中に撮影を上げなければ封切《ふうぎ》りに間にあわん。吹《ふ》きかえでごまかすから、衣裳《いしよう》だけでも貸してくれ、というので、箱をあけたらあの始末——われわれも、この時は腰《こし》がぬけそうになりましたよ。衣裳や小道具は、廊下《ろうか》の押《お》し入れに入れてありました。一つには、やっぱり中身があったんです」 「私も、実はあの平塚の殺人事件のことは、こちらへ来る途中《とちゆう》に、自動車の中で聞いたんです。しかし、そんな事件が、今度のこの事件に、これほどからんで来るなどとは、夢《ゆめ》にも思っていませんでした。それで殺された男というのは、その事件の犯人にちがいないんですね」 「ぜったいに、間違《まちが》いありません。顔はめちゃくちゃに、叩《たた》きつぶされていましたが、腕の刺青《いれずみ》や何かで、指名手配中の男とすぐに分かりました」 「それで、その男は、この家なり、容疑者やお手伝いなんかと、何か関係を持っているんじゃありませんか」 「何の関係も発見出来ません。いまのところ、絶対にないといえるのです」 「それで、その男はどこに住んでいるのですか」 「もちろん平塚ですとも」 「私は、湯河原と聞きましたが」 「それは、何かのお間違《まちが》いでしょう」 「それで、この男を殺した犯人は、弥生さんを殺したのと、同一犯人なんですね」 「としか思えません。弥生さんの方は、撲《なぐ》って昏倒《こんとう》させてから絞殺《こうさつ》した——こちらは、絞殺してから、顔をたたき潰《つぶ》した——これだけの違《ちが》いですが」  高島警部は、ただ沈黙《ちんもく》をつづけるほかにはなかった。  上杉弥生が、熱海にあらわれたのを目撃《もくげき》した人間は一人もない。それなのに、弥生が殺害されたのは、熱海であったことに違《ちが》いはない。そして容疑者の一人一人には、確固としたアリバイが立っている……  そこへまた、突如《とつじよ》として投げ出された、第二の死体……  最初は簡単に解決出来ると思っていた、この事件は、いまや底知れぬ泥沼《どろぬま》のような形相《ぎようそう》を呈《てい》して来たのだ。  警部は、自分の五官を信ずることも出来なくなった。あの時聞こえたかすかな声は、人間の口から出た声でなく、幽霊《ゆうれい》の声、上杉弥生の亡霊《ぼうれい》の声かも知れぬと思うのであった。  六時に、山本譲治の家を去ってから、弥生はどうして熱海にあらわれたのだろう。  新映|撮影所《さつえいじよ》は、小田急のS駅にある。急げば、小田原経由で、八時すぎに熱海へあらわれることも、不可能とはいえない。だが、誰《だれ》一人、その姿を目撃した者はないのだ。  ふたたび、松前|監督《かんとく》への取り調べが開始された。 「分かりません。私には何も分かりません、アリバイならば、あの時申し上げた通りです。第一、私にあの人を殺さねばならない動機がどこにあるのです。あの人との関係があったなどという噂《うわさ》は、全くとんでもないゴシップです。たしかに、あの人の芸熱心は大変なものでした……はたから見たら、そんな誤解を起こすことも、決して無理とは思えません。あの人ほど、男の気持ちのありとあらゆる変化を研究し、それに応ずる自分の演技の変化を、底の底まで、きわめ尽《つ》くそうとしていた人はありません……あの人にとって、あらゆる男は、実験材料にしかすぎなかったのです。しかし、私のような監督《かんとく》の立場からいえば、あの人は、私の芸術|意慾《いよく》の実現には、この上もない実験材料ともなるのです……私は完全に、お互《たが》いの立場を諒解《りようかい》したつもりです。それにまた、見ず知らずの強盗《ごうとう》殺人犯人まで、殺さねばならない理由がどこにあるのです……」  条理整然とした言葉であった。  高島警部も、これ以上の証拠《しようこ》が上がらないかぎり、彼の線は打ち切らざるを得なかった。  これに反して、強面《こわもて》に出たのは、日高晋であった。せっかくの金づるに離《はな》れてしまって、いくらか自暴|自棄《じき》になっていたのだろうか。彼は、猛然《もうぜん》と警部に食ってかかった。 「あんな女の一人や二人、殺されたって、何でそんなにさわぐんです」 「少しは言葉をつつしみたまえ」 「これは失礼……なるほど、あなたにとっては飯の種でしたなあ。いや、私がそう申しあげたのは、最近、あの女の素行《そこう》に、眼《め》にあまるものがあったからです」 「それと、君と何の関係があるんだ」 「マネージャーとして、私もだまって見ているわけには行きませんやね。ああして生活が荒《あ》れ出しちゃあ、芸だって、荒《すさ》んでくるのは当然ですよ」 「すると、恋愛《れんあい》関係——のことかね」 「もちろんそうです。松前君だって、あの金田という運転手だってあやしいもんですよ。山本君とは、もちろんいうに及《およ》ばずですがね」 「でも、山本君も、松前君も、その点では、口をそろえて否定していたよ。芸術のための研究。プラトニック・ラヴだといっていたんだよ」  日高晋は、唇《くちびる》の端《はし》を歪《ゆが》めて笑った。 「警部さん。あなたは、あの山本君という人間を知らないから、そんなことをおっしゃるんですよ。あんな顔で、あれは稀代《きたい》の色……いや失礼、ドンファンというものは、顔が女に好かれるように出来てなくっちゃ、こいつは話になりませんや」 「人の中傷は聞きたくないね。それとも、君が、彼を犯人だと指摘するような、確証を握《にぎ》っていれば、これは別だが……」 「足どりを見たって分かるじゃありませんか。四時に、運転手は、あの女を新宿駅でおろしたといいましたね。それからどこへ行ったんです。あの男のところしかないじゃありませんか」  警部の顔には、かすかな動揺《どうよう》の色が、あらわれたらしかった。相手は痙攣《けいれん》的に笑って、 「それごらんなさい。いいですか、警部さん、あの女は、自家用車を乗りまわしている身分ですぜ。われわれのように、シータクのメーターに、ビクビクしていなくてもすむんですぜ……それなのに、なぜ自動車をとばさずに、ラッシュで混雑している電車なんかに乗って行ったんです」  自分の言葉に陶酔《とうすい》しているように、彼は外国|煙草《たばこ》の煙《けむり》を吐《は》き出しながら、 「その理由は知れているじゃありませんか。あの女は、自分の行き先を秘密にしたかったんですよ。あの運転手は、主人に忠実な男です。愚直《ぐちよく》ですが、一本気な、日本犬みたいな男です。出来たなら、あの女も彼をくびにしたかったでしょう。しかし、主人の方が目をかけているために、そこまで無理も出来なかった。といって、自分の行き先が知れても困る。それで電車で道行と相成ったわけですな」  相手に決して好意を持っていなかった、高島警部も、この言葉に含《ふく》まれる、一面の真理は認めずにはおられなかった。 「プラトニック・ラヴ——いい言葉ですな。詩的にひびくじゃありませんか。しかし、日本人というやつは、とにかく看板にだまされ易《やす》くってね。そんな正々堂々たる関係なら、何の恐《おそ》れるところがあります。堂々と玄関《げんかん》に自動車を横づけにしたらよろしい。警笛《けいてき》を伴奏《ばんそう》にして、隣《となり》近所にふれまわしたらよろしいですな」  傍若無人《ぼうじやくぶじん》な言葉はつづいた。 「あの女は、何かを恐れているんですよ。あの運転手に、自分の行き先を知られることを恐れているんですよ。何のためです……賢明《けんめい》なる警部殿にはいわずと自らおわかりでしょう。だまされちゃいけません。あの女が上海《シヤンハイ》で、どうして生きていたか、あなたが知らないはずがありますか」 「ダンサーかね」 「とんでもない。そりゃ表向きの看板だけ。あの当時の上海で、あの女ぐらいのくらしをするには、体を売るか、体をはるか、どちらかしなけりゃ、やっていけっこありませんって……麻薬《まやく》の売買で、あの女を取り調べたのは、たしかにあなただったでしょうが」 「それが本当だったというのか」 「本当ですとも、ただその証拠《しようこ》がなかっただけ……何ならお見せしましょうか」 「領警時代の僕《ぼく》なら、喜んで拝見しただろうがね」 「警部さん……あなたは知らない。あなたはそれに気がつかなかった……だが、私は知っていたんです。しかも彼女は、天下に名をとどろかした大女優とおなり遊ばした。生殺与奪《せいさつよだつ》の権を与《あた》えられたマネージャー、私が彼女のそばを離《はな》れられなかったわけがお分かりでしょうね」 「分かるような気がするよ。ちょっと係がちがうがね」 「だが、今となっては、夢《ゆめ》去りぬ——です。日高晋もついに杢阿弥《もくあみ》になり下がりました。以上全巻の終わりですな」 「君の立場には同情するよ」 「そこで私の申しあげたいのは、この殺人によって、私の得るところは、少しもないということですな。上杉弥生あっての日高晋だから、彼女を殺す動機など、少しもないということです。まして見知らぬ男など……」  やや間をおいて、彼はするどく言い切った。 「アリバイを崩《くず》そうとなすっても無駄《むだ》ですよ。たとえこの殺人が、東京で行われたにせよ、熱海で行われたにせよ、私には絶対のアリバイがあるんですよ」 「どうぞご自由におひきとり下さい」  警部はつめたく挨拶《あいさつ》した。  彼が部屋《へや》を出て行くと同時に、一人の警官が、応接室へ入って来た。 「高島警部殿」 「何だね」 「お留守中に、この家へ、この方が弔問《ちようもん》においでになりました。そして、この名刺《めいし》をお帰りになったら、わたしてくれと申されました。自分はちょっと署の方へ、連絡《れんらく》に行っておりましたので、遅《おそ》くなりましたが……」 「誰《だれ》だろう」  ひくくつぶやきながら、警部はその名刺を受けとったが、見る見るうちに、その顔には喜色が浮《う》かび上がって来た。  その上の名は、  白川武彦  そしてその右肩《かた》に、万年筆で、 「蒼風閣《そうふうかく》に滞在《たいざい》しております」  としるされていた。     7  蒼風閣《そうふうかく》は、魚見ケ崎《うおみがさき》の絶景にあった。車がその前にとまった時、高島警部はおやっと思った。十五|坪《つぼ》か二十坪ぐらいの、平家としか思えなかったのである。  表の戸はしまっていた。ベルをおして、来意を告げると、警部はすぐに、玄関《げんかん》から下へ案内された。  懸崖《けんがい》作りというのであろう、五階建ての建物が、崖《がけ》の斜面《しやめん》に沿って作られ、最上階の玄関から、下へ降りて行くのである。 「こちらでございます」  お手伝いは、霞山《かざん》の間と名札《なふだ》の出ている部屋《へや》の襖《ふすま》を開いた。 「高島君だね。入りたまえ」  十二|畳《じよう》の座敷《ざしき》の窓際に、白川武彦は坐《すわ》っていた。上海《シヤンハイ》総領事当時から、身だしなみには病的なくらいに気を使っていた彼のこと、こうして温泉に滞在《たいざい》しているときでも、端然《たんぜん》と大島の着物を着くずれもなく身につけて、静かに正座していたのだった。 「しばらくでございました。その後おかわりもございませんか」  自然と、警部は畳《たたみ》に頭をこすりつけていた。 「こちらこそ。でも、高島君、もうそんなに固くならなくてもいいじゃないか。僕《ぼく》は役人の足を洗った。野《や》にかえって、いまは一人の私人なんだよ」  白川武彦は笑っていた。広い、角ばった額《ひたい》も、男性的な太い水平な眉《まゆ》も、固く結んだ唇《くちびる》も、高島警部にはなつかしかった。  一中、一高、東大と、外交官コースの本道を歩んで外交官試験に合格、若くして霞ケ関《かすみがせき》の偉材《いざい》といわれた白川武彦は、いまでも四十をいくつも越《こ》えてはいなかった。ロンドン大使館を振《ふ》り出しに、英米仏の三大使館勤務を次々に経歴し、中国に帰って、廈門《アモイ》の領事をつとめ、三十三|歳《さい》という若さで、風雲急を告げた上海《シヤンハイ》総領事の地位に就《つ》いたときには、誰《だれ》しも思わず眼《め》を見はって、この麒麟児《きりんじ》の前途《ぜんと》に注目したのである。  昭和十三年から二年間、緊迫感《きんぱくかん》を加えた国際都市上海で、彼は外に英米仏ソ独伊の大国を相手に廻《まわ》し、内には軍部の強圧に屈《くつ》することなく、堂々たる外交|手腕《しゆわん》を発揮した。上海工部局長ロバート・ヘンダーソンは、彼を「個人的日本|駐華《ちゆうか》大使」とよんだくらいに、彼の手腕と力量に絶讃《ぜつさん》を惜《お》しまなかったのである。  これが、中国の内治外交の指導権を、一手に掌握《しようあく》しようとしていた、当時の軍部の逆鱗《げきりん》に触《ふ》れないはずはなかった。  有形無形の圧力は、彼を上海からマルセーユの総領事に追った。赫々《かつかく》たる業績を残しながら、最愛の妻に死に別れた彼は、ひとり淋《さび》しく南仏の地に去った。  大戦は勃発《ぼつぱつ》し、交換船|氷川丸《ひかわまる》で帰国し、日本の土を踏《ふ》んだ。それを最後に、彼の名は新聞紙上にあらわれることもなかった。 「長官は、いまどうしていらっしゃるんですか」 「長官はないだろう。白川さんで結構だよ」 「どうもむかしの癖《くせ》が出まして」 「弁護士をしている。友人からぜひとたのまれて、三幸商事の顧問《こもん》弁護士になっている。別に何にもしなくても、暮《く》らしには困らぬようにしてもらっているが、向こうでは、結構先物を買っているつもりだろうね」 「惜《お》しいですなあ。長……いや、あなたのようなお方を、むだに遊ばせておくなんて、政府もどうかしていますなあ」 「満員電車みたいなものさ。割りこもうという気がなければ、いつになったって乗れやしないよ。ところで君は、この部屋《へや》を知っているかな。近衛《このえ》・汪兆銘《おうちようめい》会見の部屋だ……命をかけて日本へわたった彼は、この部屋で初めて、近衛さんと会見したんだ。あのころには、ずいぶんいろんなことがあったねえ」  彼はむかしをなつかしむように、内海の彼方《かなた》に浮《う》かぶ、熱海の街の灯《ひ》を見つめた。 「帰りなん、いざ、田園まさに蕪《あ》れんとす……僕《ぼく》のような心境になれなかっただけ、あのお二人は気の毒だった……思えば時代も悪かったね」 「やむを得ないことだったですね」 「そういう僕だって、あの立場に立たされたら、どうなっていたか知れないが……実は、天野さんの奥《おく》さんがなくなられたと聞いて、お悔《くや》みに行ったら、君の名前が出てね、なつかしくなったから、一度あいたいと思ったんだ。よかったら、飯でもいっしょに食おうじゃないか。ここの天ぷらは有名だよ」 「はあ光栄です」 「また、そんなことをいう」  彼は笑って、ベルをおした。 「飲むだろう」 「いや、今日はいただきません。事件のことが心配で、お酒ものどには通りません」 「君らしくもない。どうせ、解決は時間の問題だろう。得意の粘《ねば》りで、一歩一歩、虱《しらみ》つぶしにあたって行くさ」 「ところが、この事件というのはかわっているんです。六人の中に犯人が限定されていて、しかも全然手がかりがつかめないんです」 「六人の中に——?」  白川武彦は、初めて事件に興味を感じて来たらしかった。 「白川さん、お願いです。お智慧《ちえ》を貸していただけませんか。この事件が解けなかったら、私は錦ケ浦《にしきがうら》からとびこむよりほかありません、生きて東京には帰れません」 「思いつめるなよ。命を粗末《そまつ》にするんじゃない。いったいどんな事件だね」  高島警部は、逐一《ちくいち》もらさず、白川武彦の前に事件の内容を物語った。  その間、相手は腕《うで》を組んだまま、膝《ひざ》ひとつ崩《くず》そうとはしなかった。 「まあ飯でも食いながら話そう」  警部の話が終わったときに、白川武彦はいい出した。 「この天ぷらの油はね、浜名湖畔《はまなこはん》の伊佐見《いさみ》村からとりよせているんだそうだ、炭は天城《あまぎ》の山中で、わざわざ焼かせているという……ずいぶん凝《こ》ったまねをするね」  警部にとっては、油の話はどうでもよかった。彼は機械的に、海老《えび》を口へほうりこんだ。 「外交は詭弁《きべん》なり——マキャヴェリは、するどいところをついているね。僕《ぼく》には、その詭弁を弄《ろう》することが、どうしても出来なかった。生まれつきで、どうにも仕方のないことだが、それが僕《ぼく》の外交界から退いた動機でもあった。ただ、僕は自衛のために、その詭弁《きべん》を見やぶる力だけは養って来た。犯罪もまた詭弁なり——と僕はいいたいね。今度の事件は、二に一を加えて二になるという詭弁だよ」  警部の口の中で、海老《えび》がとび上がった。彼は兎《うさぎ》が亀《かめ》に追いつけないという、有名なギリシャ哲学者の説を思い出したのである。 「な、何です。その高等数学は。そりゃ、支那鞄《しなかばん》のことですか」 「それもそうだが、僕は第一に、人間のことをいっているんだよ。二人に一人を加えて、二人になったとしたら、その一人はいったい何者だろう」 「幽霊《ゆうれい》ですか」 「幽霊かも知れないね」  白川武彦は、微笑《びしよう》しながら言葉を続けた。 「むかし『幽霊西へ行く』という映画があった。イギリスの古城に住んでいる幽霊が、城といっしょにアメリカへ渡《わた》るという話だが、その中で、僕の吹《ふ》き出したのは、その城を買いとって、アメリカへ移築しようとしたブルジョアだ。彼は歓呼の声にこたえて、自動車で市中行進をする。彼の隣《となり》には誰《だれ》もいない。ただ幽霊《ゆうれい》の指定席という札《ふだ》がはってあった」  白川武彦は、微笑《びしよう》しながら、言葉をつづけた。 「幽霊は君といっしょに西へ来たんだよ」  警部は、とたんに大きく咳《せき》こんだ。 「じょ、冗談《じようだん》をおっしゃっちゃいけません」 「冗談じゃないよ。君は、いっしょに平塚から、君の自動車にのりこんだ人間を誰だと思ってるんだ」 「平塚警察の大宮とかいう刑事《けいじ》でした」 「平塚警察へ、電話をかけて聞いて見たまえ。そんな刑事がいるかどうか、いたとしたら、君といっしょに湯河原まで来たかどうかをたしかめたまえ」  警部は箸《はし》を投げ出して、そのまま階段をかけ上がった。三十分ほどして彼は帰って来た。その顔には、全然何の血の気もない。 「おりません……たしかに、そんな人物はおりません」 「そうだろうとも。それが第一の幽霊だよ。おそらくは、第二の支那鞄《しなかばん》に入っていた死体の主——平塚の殺人事件の犯人だね」  高島警部は、ベタリと畳《たたみ》に腰《こし》をおろした。 「そんな馬鹿《ばか》な……いくら何でも……」 「ちっとも馬鹿な話じゃない。いいかね。平塚の警官は、君にお二人ですね、と聞いた。彼はもちろん、運転手を計算外にいれていた。君は自分の隣《となり》に坐《すわ》っていた男を、平塚警察の刑事《けいじ》だと思っていたから、それを度外視して、自分と運転手だけを数えた。二プラス一イコール二。ここに一人の人物が、完全に注意の外に逃《のが》れ去った。この殺人鬼は、こうして重囲の中から脱《だつ》することが出来たんだ」 「すると……私は、殺人犯人と、知らずに同じ自動車に乗っていたわけですね」 「その通り。警視庁の捜査《そうさ》主任といっしょでは、警官だって疑いはしないよ」  警部は深く首をたれた。 「恐《おそ》れいりました……むかしながらのご明察、いやはや感服にたえません……しかし、あの殺人犯人が、あの時自動車に乗りこんだわけはわかりますが、それがどうして、縁《えん》もゆかりもないあの家に……」 「縁もゆかりもないことはない。この男は、上杉弥生の殺害犯人と、利害を共通していたんだ」 「共犯ですか」 「共犯じゃない。この殺人は、両方別々に起こっている。しかしふしぎな運命の糸で、たがいに結びついていた。その糸をたどって、この男は青山|荘《そう》にあらわれた……そして、上杉弥生殺害犯人に殺されてしまった。……二時に、青山荘の裏門から入って行ったという人影《ひとかげ》は、弥生さんの部屋《へや》で、ハムサンドをかじったという幽霊《ゆうれい》は、おそらく、この男だったろう」 「白川さん、それじゃあ、あなたは上杉弥生殺人犯人の名前がお分かりなんですか」 「分かるとも。天の配剤というんだろうね。この男を殺さねばならなくなったのは、犯人の致命《ちめい》的な失敗だったよ」 「それじゃあ、犯人の名を教えて下さい」 「教えてあげることは、造作《ぞうさ》もないが……」  白川武彦の顔には、憂《うれ》いの影《かげ》が浮《う》かんだ。 「知らぬ存ぜぬ——で頑張《がんば》り通されたら、この事件は大分長びくよ。新映映画の撮影所《さつえいじよ》に、鞄《かばん》を運んで来た男の調査、被害者《ひがいしや》の足どりの捜査《そうさ》、ちょっとやそっとじゃかたづかないよ。それよりも、今晩中に、のっぴきならぬ現行犯でおさえた方がよくはないか」 「現行犯……とおっしゃると殺人の——?」 「その通り」 「今度は、誰《だれ》が殺されるんです」 「君だよ」  高島警部は思わず箸《はし》を膝《ひざ》におとした。 「あの殺人鬼は、今度は、私をねらっているんですか」 「ねらわれなければふしぎだよ。東京から熱海へ帰って来たときに、君の役割は終わったんだ。君は、犯人にとって、この上もない、危険な存在になって来た……第二の殺人を行ってから、毒を喰《くら》わば皿《さら》までという心境になっている男が、君を見のがしなどするもんか」 「それじゃあ、どうすればいいんです」 「こうするのだ」  声をひそめて、白川武彦は、ある秘策を、警部の耳にささやいた。  一時間後、高島警部は、緊張《きんちよう》を禁じ得ない顔色で、青山|荘《そう》に帰って来た。  関係者一同は、まだ態《てい》よく、この家に軟禁《なんきん》されていた。警部は、あの降霊《こうれい》実験の行われた一室に、その人々をよび集めた。  天野憲太郎の顔には、憔悴《しようすい》の色がおおえなかった。そのほかの人々も、焦慮と緊張に、顔の筋肉がひきつっているようだった。 「皆《みな》さん、この一日、大変ご迷惑《めいわく》をおかけしました……」  警部は静かに切り出した。 「しかし、私は今こそはっきり、その犯人を知ることが出来ました。その名を申しあげることは造作《ぞうさ》もありません。しかし、この男がこれほど思いつめた心境に追いこまれたことに対しては、私にも一抹《いちまつ》の同情をおさえきれないものがあります。私は、彼に最後の機会を与《あた》えましょう。明日の朝、九時までに自首して出さえすれば……その後の罪の量刑《りようけい》にも、相当の考慮《こうりよ》が払《はら》われると思います」  警部は、するどく人々の顔を見まわして、最後の止《とど》めを刺《さ》したのだった。 「私の言葉を、ただの威嚇《いかく》と思ってはいけません。私はこの事件の、最後の秘密を見やぶっています。この殺人の現場は、熱海でも東京でもなかったのです」     8  高島警部は、その時まだ、犯人の名を見やぶっていたわけではなかった。ただ彼は、白川武彦から与《あた》えられたしぐさ、せりふの通りに、人形のように動いていたのだ。  彼は自分の部屋へひきとって、寝台《しんだい》の上に静かに横たわっていた。眠《ねむ》ってはいけない。眠ってはいけない……白川武彦の言葉は、彼の脳裡《のうり》にこびりついて離《はな》れなかった。  午前三時……かすかに部屋《へや》の扉《とびら》が開いた。そして、足音をしのばせて、黒布で顔をかくした一人の男が、彼の寝台《しんだい》に近づいて来た。  殺人|鬼《き》! 「誰《だれ》だ」  おどり上がった高島警部は、いきなり相手にくみついた。だが、相手もすかさず、警部の体をはね返して、グイグイと、物すごい力で首をしめつけて来た。  気を失おうとした一瞬間《いつしゆんかん》、部屋の燈《あかり》がパッとともった。いまにも意識を失おうとしていた警部の眼《め》には、その時白川武彦と、梶原警部補の影《かげ》が映った。 「手を上げろ!」 「金田君、君も遂《つい》に自分の墓穴《ぼけつ》を掘《ほ》ったね」  警部はその時、気を失った。ただその薄《うす》れて行く、最後の意識に残ったのは、この二つの殺人事件の犯人の名……運転手、金田晴信であった。 「何でもないことだったんだよ。そんなに難しい解決ではなかった」  蒼風閣《そうふうかく》の一室で、波の彼方《かなた》に浮《う》かぶ初島をながめながら、白川武彦は警部に語った。 「日高君はするどいところをついていた。あの女が熱海へ来るのに、自動車を使わぬわけはないってね。たしかに、彼女は自動車へ乗って来たんだよ。東京を出たときは生きていた。だが熱海へ着いたときには、死骸《しがい》になっていた。予備のタイアや、修理道具を入れておく、車体の後ろのポケットね。あそこが幽霊《ゆうれい》の指定席だったんだ。犯人は、昏倒《こんとう》させた女に猿《さる》ぐつわをかませ、あそこへほうりこんだんだ」 「いったい、どこでそういうことをしたんです」 「被害者《ひがいしや》が、新宿で電車にのったことはたしかだろう。しかし犯人は、自動車で、山本君の家へかけつけたんだ。家から出るところを見はからって……一息に息の根を止めることはむずかしくはなかったろう。しかし、それでは、計画に狂《くる》いが来る。犯人は君にアリバイを立てさせたかったんだ」  警部の頭は自然に下がって行った。 「警部の君と、始終いっしょにいたというくらい、しっかりしたアリバイはないからね。それにしては、支那鞄《しなかばん》を撮影所《さつえいじよ》にとどけた時間が妙《みよう》だが、これは自分でしたわけではないし、たのまれた誰《だれ》かが間違《まちが》えたんだろう。犯人は塩をつめた支那鞄を東京から送り出した。そして、平塚で自動車をとめて、抵抗《ていこう》出来ない弥生さんを絞殺《こうさつ》した。そして、その死体を自動車からあの洋服|箪笥《だんす》の中へ運びこんだ。こうしておけば、犯行が東京で行われたと考えられても、熱海で行われたと思われても、完全に嫌疑《けんぎ》の外へ逃《のが》れられる。ただ、彼はその殺人の現場で、いま一人の殺人犯人にあうということは、夢《ゆめ》にも思っていなかった……  重囲から脱《だつ》しようとして、苦心していた、あの平塚の犯人は、思わぬ殺人の現場を見て小おどりをしたのだろうね。お互《たが》いの取引は、すぐにその場で成り立った。お前の犯行をだまってやるから、かわりにおれをかくまえと……それがあの自動車の中の幽霊《ゆうれい》となったんだ。その約束《やくそく》どおりに、彼は青山|荘《そう》へたずねて来た。そして、毒を喰《くら》わば皿《さら》までと、かくごをきめた金田に、絞殺されてしまった。自分の秘密を知っている、指名手配になっている男を、あの殺人犯人が生かしておこうはずはないよ」  高島警部は、背筋にジトジトと、あぶら汗《あせ》がにじみ出して来るのを感じた。それでは、自分は、二人の殺人|鬼《き》にかこまれ、一人の死体といっしょに車を走らせていたのか。この事件を、白川武彦が『幽霊《ゆうれい》西へ行く』にたとえたのは、単なる比喩《ひゆ》ではなかったのか。 「もういうこともないようだね。幽霊は最後まで自動車を離《はな》れなかった。君が、あの実験の席で、被害者《ひがいしや》の名をよんだとき、犯人は奇妙《きみよう》な悪戯《いたずら》を思いついたのだろう。そして度胆《どぎも》をぬかれている霊媒《れいばい》にかわって、答えようという気になったのだろう。しかし、そんな心を起こさせたのは、これこそ幽霊《ゆうれい》の力だったかも知れないね」 「そうかも知れません。しかし、最後に一つだけ、おたずねしたいことがあります。上杉さんは、本当は貞女《ていじよ》だったのでしょうか。それとも娼婦《しようふ》だったのでしょうか」 「それは僕《ぼく》にも分からない。人間の、ことに女の本性は、法律の用語のように、わりきれるものじゃない。ただ、この事件の犯人のように、単純な、一本調子の男にぶつかったときに、そこに悲劇が生まれたのだ。英国の詩人はするどいことをいっている。  ——人の一生が偉大《いだい》であるためには、その最後が悲劇で終わらねばならない、と。  貞女でもいい。娼婦でもいい。ただあの人は稀《まれ》に見る偉大な女優だったよ。あそこまで落ちこんだ泥沼《どろぬま》から、今日《こんにち》を築き上げた、その才能と努力とを、僕は高く評価せずにはおられないね」  しばらくして、彼は最後の一言《ひとこと》を呟《つぶや》いた。 「どうして近ごろの若い者は、こんな意味のない殺人などをしでかすんだろう」  警部は、これと似た言葉を、あの自動車の中で聞いた。それは二人の殺人犯人が、自分の行為《こうい》を忘れて、お互《たが》いに相手を責める言葉であった。  高島警部は沈黙《ちんもく》した。  公使館の幽霊《ゆうれい》     1  数年前、私は『幽霊《ゆうれい》西へ行く』という小説を発表したことがある。  くわしい内容は省略するが、その中にはこんな場面が出て来る。  東京警視庁の捜査《そうさ》主任が、熱海へ行くために、夜おそく湘南の道を車でとばしている途中、背広を着たここの刑事《けいじ》だと名のる男に、殺人事件があって、連絡したいことがあるので、湯河原まで乗せて行ってくれとたのまれる。  しばらく行くと非常警戒に出っくわした。制服の警官が、車の中をあらためて、 「お二人ですね」  とたずねるが、捜査主任の方は 「ああ、二人だよ」  と答え、そのまま何事もなく通過する。  この背広の男は、次の町で車をおりるのだが、実はこの男が犯人だったのだ。  大したトリックとはいえないが、ここに奇妙《きみよう》な数学が成立する。  車の中にのっていたのはあわせて三人、捜査主任と、運転手とこの犯人なのだ。ところが、警官の方では、運転手は数にいれず、この犯人を警視庁からやって来た男だと思って、「二人ですね」と聞いたのだ。ところが、捜査主任の方は、犯人を土地の警察署の刑事だとばかり思いこんでいるものだから、これはむこう側の人間として、数に加えず、運転手まで加えて二人といったのである。  どっちにも悪意はなかったのに、感覚と視角の相違《そうい》で、三人が二人になったのだ。だから、私はこの第三の男——犯人を幽霊《ゆうれい》にたとえたのだった。  発表当時は、ちょっと面白いトリックだなと思ったものだが、それから大分たっていることだから、私もこのことはすっかり忘れていた。だから、ある席で、東京検察庁の竜崎検事にあって、この話を持ち出されたときには、すっかりおどろいたものだった。 「あのトリックにはおどろきましたよ。まったく傑作《けつさく》——六千五百万円の価値がありましたなあ」  といわれて、私はいよいよ面くらった。物のたとえに、百万ドルの微笑《びしよう》とかいうのはあるけれども、その四分の一ぐらいの値打ちで、二十五万ドルのトリックと、冗談《じようだん》をいったつもりかと思って、しきりに頭の中で、この金額をドルに換算《かんさん》しているうちに、竜崎検事はにやりと笑って言葉をつづけた。 「いや、なにも、あのトリックの特許料の話じゃないんです。ただ、あのトリックを実際に使った事件があったんですよ。あなたの愛読者だということですが、あの小説にヒントを得て、六千五百万円の詐欺《さぎ》を働いたんですよ。それで、私も本を買って来て読んだのですが、たしかに幽霊《ゆうれい》のトリックがたいへんうまく使ってあるんです。推理小説の害毒も、ここにきわまれりというべきですなあ」  むこうはにやにや笑っていたが、私はいよいよ驚《おどろ》いた。ぜひ、その事件の内容を話してくれとたのみこんで、やっと、この公使館の幽霊のことを聞き出したのだが、それはたしかに、推理作家の想像を絶する奇怪《きかい》な物語だった……     2  国際的な問題ですし、現在でもまだ結審《けつしん》になっていませんから、仮名を使うことにしますが、土屋|詮三《せんぞう》という男が主犯——この人物が詐欺《さぎ》の常習犯で、あなたの小説の愛読者なんですよ。ところが、彼《かれ》はあの幽霊《ゆうれい》のアイデアを見たときに、これあるかなと膝《ひざ》をたたいて感心したのです。それから、彼は自分の仲間の勝田省吉という男と一緒《いつしよ》になって、いろいろと幽霊を出すのにふさわしい場所を探《さが》してまわったのです。そして、発見したのが、M国の公使館でした。  M——という国の名前も、はっきりいえませんけれども、中米にある一つの小国だと思って下さい。その言葉はスペイン語ですが、これが大いに役だったのです。英語やドイツ語、フランス語などではいけなかったのですねえ。  スペイン語を話せるのは、公使とその家族だけ、ほかの館員は、日本語しか話せません。両方の言葉を使えるのは公使の秘書の二世ひとりで——ドン・山下というような名前にしておきましょうか。  二人はまず、このドン・山下をだきこみました。大芝居《おおしばい》を打つためには、少しぐらいの資本投下はがまんしなければいけないから、まず公使館で輸入する免税《めんぜい》の洋酒を少し分けてもらえないかというような名目で、ドンに接近し、飲ませたり、女を世話したり、金をつかませたりしながら、むこうの態度を観察したのですね。それで、これは物になりそうだとにらんでから、儲《もう》けた金の何割かを分けてやるという約束《やくそく》で、とうとう仲間にすることに成功したのです。  ドンの方は、この大芝居がすんだらすぐに本国へ高とびするということになっていました。なにしろ、外交官のことですから、旅券はいつでも自由になりますからね。  さあ、これからがいよいよ、幽霊の登場ですよ。ドンは、それから勝田省吉を公使館へ連れて行き公使に紹介《しようかい》しました。  もっとも、むこうは日本語はわからない、こっちはスペイン語がわからないと来ているから、これはドンの一人|舞台《ぶたい》です。  公使には、自分の友人だが、ちょうど公使館へ遊びに来たから紹介しましょうと持ちかけて、それから公使館の全員には、勝田君にはこれから自分の助手をつとめてもらうことになったから——と紹介したのですね。  公使の方は、館外のただの日本人だと思っている。館員の方は、正式に館員となったものとばかり思いこんでいるものだから、たとえば、外部から電話がかかって来て、  ——勝田さんというお方は、そちらにおつとめですか?  というような問いあわせがあったとしても、  ——はあ、たしかにおつとめになっていますが、今日はおでかけでございます。  という風な返事をするでしょう。何しろ、交換手《こうかんしゆ》から小使に至るまで、一人のこらず、正式に秘書の助手になったとばかり、思いこんでいるのですから、絶対にぼろが出る気づかいはありませんねえ。たとえば、名刺《めいし》を作るにしても、公使館から電話をかけて、現品を公使館へとどけるんですから、こんなことで足がつく気づかいもありませんよ。  公使の方も、友人にしては、ずいぶん足しげく遊びに来るな——と思ったかも知れませんが、勝田省吉のほうも、そこはぬけめなく、公使にいろいろの物を贈《おく》って、しきりにきげんをとっていたんですよ。  公使にしたところで、金には不自由はないとしても、やっぱり遠い異国に来ていて、外国人から親切にしてもらえば、そこは人情としてうれしいでしょう。勝田省吉が来るたびに、にこにこして話しあっているものだから、それを見ている館員たちの方は、完全にだまされてしまったのも無理はありません。こういう風にして、M公使館の幽霊《ゆうれい》は、みごとに誕生《たんじよう》したわけですよ……     3  さて、これからがいよいよ、本筋のお芝居《しばい》です。数か月にわたって、公使と館員をぶじにだましおわせた勝田省吉とドンは、いよいよ、外部への工作にかかったのですね。ちょうど、時はデフレの真最中で、相当の大会社でも、金ぐりには青息|吐息《といき》の状態だったとお考え下さい。  そういう時に、会社の方では、まず約束《やくそく》手形を振り出して、これを現金にかえ、急場をしのごうとするものですよ。約束手形といいますと、早くいえば借金の証文のようなものです。三か月なら三か月先に、これだけの金をわたすという約束で、手形に金額を書きこんで、むこうにわたすわけですよ。たとえば物を買って、その支払《しはら》いにあてるというような目的に使うのが、本来の性質なのですが、こういう金融《きんゆう》に使う時には、その間の利子をさしひいて、現金をうけとるわけですね。これを俗に『手形を割る』といいますが——いや、あなたのようなお方をつかまえて、こんなに細かなところまで、お話しする必要はありませんでしたかな。  ところが、手形というものは、期限が来るまでは、ぐるぐるいろんな人の手をまわって、有価証券としての性質を持っているものです。だから、かりにこの手形を詐欺《さぎ》で持って行かれたとしても、これが善意の第三者の手にわたれば、振《ふ》り出《だ》した側では、みすみす詐欺と知りながら、約束の金額を支払わなければならない羽目になるわけですよ。普通《ふつう》には、これをパクリといっていますがね……  ところで、ドンと勝田の二人は、やっと適当なパクリの相手を探《さが》し出しました。これも会社の名前はちょっと出せませんから、かりに、丸々商事株式会社と呼んでおきましょうか。  まず、勝田省吉は、自分の仲間をつかって、丸々商事の重役と連絡《れんらく》をとったのですよ。  なにしろ、パクリ詐欺というのは、戦後の流行犯罪ですから、ちょっとやそっとの方法では一応の会社の重役なら、ひっかかる気づかいはまずありません。ところが、いやしくも一国の公使館ということにもなれば、これは必ず膝《ひざ》をのり出して来るでしょう。相手が日本人となると信用しなくても、外国人となると、無条件に信用してしまうのが、日本人の悪癖《あくへき》でしてね。  話というのは、こんな工合だったのです。  まず、一国の公使館だから、円の工面《くめん》はつかなくても、ドルだったら、くさるほどあると持ちかけました。M国は領土こそ小さいけれども、経済の豊かなことにかけては定評のある国ですから、誰《だれ》でも、なるほどというにきまっています。そこで、約束《やくそく》手形でドルを買ったら——とこう切り出すのですよ。  一ドルは公定価格にあたる換算率《かんさんりつ》で、三百六十円ですけれども、そのころは闇《やみ》で四百円ほどしていました。  つまり、公使館としては、いろいろの外交活動のために、円がいるけれども、それを正式に交換《こうかん》したのでは、ぴしゃりと一ドル三百六十円にしかつかないわけでしょう。それを闇で四百円で売れれば一ドルについて四十円が宙に浮《う》くから、それが公使のポケットマネーになるというのです。  つまり、会社側は約手を渡《わた》して、その額面を一ドル三百六十円に換算しただけのドルの小切手を受け取る。ただ、それを正式に銀行に入れたのでは、やはり三百六十円にしかならないから、それをまた闇《やみ》で四百円に処分して、四十円とプラス・アルファをリベートとして出し、自分の方は三百六十円マイナス・アルファをうけるというのです。  われわれの眼《め》から見た日には、完全に外国|為替法違反《かわせほういはん》になるわけですが、話の筋道は通りすぎるほど通っていますし、それならば、たいていの人間はひっかかりますよ。  それでも、一応だめおしぐらいして見なければ、重役の役目はつとまりません。そこで勝田省吉の仲間は、公使館さしまわしの自動車で、この重役を公使館へ案内したのです。  まあ、誰《だれ》でも外国の国旗のついた大型車で、屋上に国旗のひるがえっている建物の中へ連れ込《こ》まれたら、九割九分までは信用するでしょう。そこへドンと勝田省吉が、笑いながら出て来て、公使の部屋へ案内する。公使としたって、勝田省吉には大変な好感をいだいていますからね。この重役にもにこにこして、握手《あくしゆ》ぐらいするにきまっていますよ。  重役の方にしてみれば、これは感激《かんげき》ものですとも。一生|懸命《けんめい》、日本語で挨拶《あいさつ》したり、手形の方はよろしくお願いいたしますとたのみつづけるわけですが、公使の方は、一言《ひとこと》だってわかる心配はありません。  ドンに、いったい彼は何をいっているのか——と、たずねると、ドンも心得ているものだから、——実は公使の自動車の古くなったのを、一台はらい下げてもらえないかというお話でございます。  というようなことを、長々としゃべりまくるわけですよ。公使にしたって、忙しいし、たかが自動車一台のはらい下げぐらいで、そんなに時間をつぶしてもおれないから、  ——オーケイ、後は勝田君とも相談して、よろしくはからいたまえ。  というようなせりふをのこしてひっこむでしょう。たしかに、勝田省吉というのは、ここでも幽霊《ゆうれい》になっているわけですね。公使の方も、会社の方も、おたがいに相手方の人間だと思いこんでいるわけですから。しかし、どんなに警戒心の強い重役にしたところで、ここまで来れば、まず百パーセントはだまされますとも。公使の顔は、一応前もって写真でたしかめるというところまで、だめおしはして来たらしいのですが、相手は本物の公使だし、その口から、オーケイとか、カツタとかいう言葉が出ているわけですからね。  この重役は、ドンと勝田にぺこぺこ頭を下げて、くれぐれもよろしくたのむといいのこすと、会社へとんで帰りました。何しろ、往きも帰りも、公使館の車で、しかも重役が腹から信用しきっているものですから、重役会議でも、可決されるのは当然でしょう。  ただ、社長だけは裸一貫《はだかいつかん》からたたきあげて来た苦労人だけに、もう一度、だめをおさせたそうです。  あらためて、公使館へ二度も電話をかけさせて、ほんとうに勝田省吉という館員がいるか——と問いあわせさせたらしいのですが、なにしろ、半年近くの工作で、水ももらさぬ準備ができていることですから、その辺にそつはありません。この報告をきいてから、初めて社長は決裁の判をおし、手形に六千五百万円という金額を書きこんで、その重役にわたしたわけです。  重役の方は、その手形を持って、また公使館へのりこみました。籠《かご》ぬけという手は、よくパクリには使われるのですが、前にああして公使ともあっていることですし、同じ建物の同じ部屋へ通されて同じ人間にあっているのですから、疑いをおこす方がどうかしています。  ドンと勝田は、ここで手形をすかして見たり、ルーペで調べて見たり、いろいろとこまかな芝居《しばい》をしたあげく、それでは、これを銀行で確認させたり、ドルの小切手をまた闇《やみ》で円にかえたりする都合があるから、一週間待ってもらいたいといい出しました。  それは、もちろん、最初の約束《やくそく》の中に含《ふく》まれていますから、重役の方も、否《いな》やはありません。ただ、正式の預かり証をほしいといい出したのは、これは重役の職責として当然のことでしょう。  ドンはタイプの前に坐《すわ》って、葉巻などくわえながら、ぱちぱちとタイプを打ちだしました。何しろ国旗を四方に印刷した用紙はいくらでも自由になるのですからね。勝手な文句をうちまくって、それから、  ——それでは、公使のサインをもらって来ますから。  と、ことわって部屋《へや》を出て、勝手に自分がサインをする。それから、時間を見はからって部屋へもどって、  ——あいにく、公使はただいま、イギリス大使と重要会談中で、本日はおあい出来ませんが、くれぐれもよろしく申し伝えてほしいといっておりました。  というようなことを、片言の日本語でしゃべりまくって、ごていねいに、スタンプをぱーんとその上におしたそうです。このスタンプは、どんな手紙にでも、必ずおす普通のものだというのですが、日本人は「何々株式会社取締役社長之印」などいうものをすぐ連想するものだから、これがたいへんなききめがあったのですね。  ——これでよろしいですか。  といって、つきつけられたところで、もともとスペイン語は一言もわからないものですから、たとえば、  ——お前は世界第一の阿呆者《あほうもの》である。  というような文句がならんでいたとしてもわかるような気づかいはありませんよ。それでも、この重役は一生|懸命《けんめい》、スペイン語のわかるような顔をして、この書類をにらんでいたそうです。そうしたら、またドンが、  ——日本語で、書類をお作りすればよろしいのですが、公使は日本語が読めませんために、責任を重んじて、日本語の書類には、いっさいサインをなさいません。外務省を通じて交換される公式外交文書で、日本、スペイン両国語の正本が出来ているものは別ですが。  といい出したのだそうです。これは完全な止《とど》めの一撃《いちげき》でした。このインチキ書類を、やはり公使館の正式の封筒《ふうとう》へ入れてもらってうけとると、重役は二人に三拝九拝し、喜んで会社へとんで帰ったのです。  さあ——後にのこった二人は、笑いがとまらなかったことでしょう。半年の時間と、多少の資本はかかっているとしても、法律的には何の効力もない紙片一枚で、六千五百万円という正式の手形をパクれたわけですからね。その日のうちに、この手形は、一応善意の第三者ということになっている主犯の土屋|詮三《せんぞう》の手にわたったわけですよ。彼は何くわぬ顔で、この手形をまたべつの人間にわたし、現金にかえてしまいました。一応の会社の正式の手形ですから、何の問題もなかったわけです。これで幽霊《ゆうれい》が公使館から消えてなくなり、ドンが飛行機で、本国へ高とびしてしまえば、丸々商事のほうでも、あとはどうしようもなくなるわけでしょう。会社は信用を重んじますから、たとえ犯人が国内にいることがわかっても、そうそう公表できるものではありませんし、まして、国際問題となってはなおの話です。  いかがです? これ以上|巧妙《こうみよう》な完全犯罪は考えられないくらいじゃありませんか?     4  この話には、私も完全にまいってしばらく返事ができなかった。それでも間もなく、気をとり直して、この犯罪にはどこにミスがあったか、犯人たちはどこで間違《まちが》えて検察庁の手にかかるようになったかを、しつこくたずねて見たのだが、竜崎検事は意地悪く、にやにや笑うばかりで、そのことについては一言《ひとこと》も話してくれなかった。  それから二、三日して、私はこの検事から手紙を受け取ったが、その中にはこんなことが書いてあった。 「先日の話はお気にいりましたか?  実は、私も推理小説には大変興味を持っているために、あなたの作品にヒントを得て、いかにも、もっともらしい幽霊《ゆうれい》の犯罪を考え出して見たのです。  たしかに、金融《きんゆう》犯罪を担当している検事の考えつきそうな物語でしょう?  あの話をしていたときの、あなたのお顔と声から判断して、物語としては、たしかに成功したなと思ったのですが、さて、解決はと聞かれたときには、私もはたと当惑《とうわく》いたしました。実は、この解決はまだ考えていませんでした——というよりは、どんなに題をひねって見ても、現在のわれわれの捜査《そうさ》技術では、この犯人たちは捕《つかま》えきれないだろうというのが、正直な告白なのです。  ですから、この話も推理小説としては落第でしょうし、私も推理小説を書こうという野望はなくしてしまいましたが、ひとつ、あなたの力で、この事件の解決をつけて見てはいただけませんか?」  これは、ある意味では、推理作家に対する法律家の挑戦《ちようせん》のようなものだった。私は、それから数日、必死に頭をしぼったが、とうとう万人を納得させるような解決は発見することが出来なかった。それでやむを得ず、一つの詐欺《さぎ》犯罪の物語として、ここに紹介《しようかい》したわけだが、さて諸君なら、この犯人たちをどうして捕えさせるでしょうか?  五つの連作——犯人当て小説——   殺人パララックス——犯人当て小説 その一——     1  ちょうどその日は日曜日だった……。  しかし、犯罪者というものには、曜日の観念などはぜんぜんない。したがって、それを追う警察官にしたところで、まるでむかしの海軍のように、月月火水木金金という一週を送り迎《むか》えしなければならないことが多いのだ。 「たまの非番の日曜ぐらい、休ませてもらいたかったなあ」  捜査《そうさ》一課の加瀬敬介警部は青山《あおやま》の殺人現場へむかう自動車の中で、殺しの鬼といわれる彼には珍《めずら》しい愚痴《ぐち》をこぼした。  そばから、横山部長刑事が同情するように、 「全くですなあ。こういう商売では、家庭の平和も、子供の教育もありませんでねえ。今日もひさしぶりに子供たちをどこかへつれて行こうと思っていたんですが、親の心ホシ知らずです」 「僕《ぼく》も中学一年の坊主《ぼうず》と、動物園へ行くつもりだったんだがね。やっこさん、近ごろカメラにこって、従兄弟《いとこ》のお古をまきあげて、将来はカメラマンになるんだと大はりきりさ。その手はじめが動物科らしい」 「そうですか? それでもカメラは、ちょっと金がかかりますが、趣味と実益がかねそろうからいいじゃありませんか。それにしてもカメラの最近の進歩はこわいですねえ。われわれの子供のころには、せいぜい金一円なりの東郷カメラぐらいしか持てませんでしたな」  もちろん、二人とも、これから捜査《そうさ》を開始しなければならない殺人事件のことは忘れてしまったわけではない。ただ、死体も現場も見ない前に、よけいな先入観をいだくのは禁物《きんもつ》なのだ。こういう無意味な雑談で、しばらく時をすごしたとしても、べつに怠慢《たいまん》だといわれることもないだろう。  しかし、窓から警官の姿を見つけて、横山部長もわれにかえったようだった。 「さあ、現場です。たしかにあの五人のうち一人は嘘《うそ》をついていますね」 「うむ……」  車がとまった瞬間《しゆんかん》には、警部も鬼《おに》になっていた。肩《かた》をゆすって車をおりたときには、もう子供のことも、カメラのことも、念頭から消えてしまっていた。     2  殺人現場は、青山|高樹町《たかぎちよう》にある米沢家の庭だった。  高いコンクリートの塀《へい》にかこまれた庭の広い堂々たる邸宅《ていたく》だが、その門の近くの植え込みの中に、一人の男が倒《たお》れていたのを、今朝お手伝いが発見し、あわてて警察へ知らせたのだ。  凶器《きようき》はどこでも売っているような鋭《するど》い飛び出しナイフ、それで背中から心臓のあたりを一撃《いちげき》し、倒れたところを植え込みの中へひきずりこんだものと推定される。死亡推定時刻は昨夜の十一時前後——これは、鑑識《かんしき》課員の科学的意見も、捜査官《そうさかん》たちの経験的意見もぴったり一致《いつち》したことだし、後で解剖《かいぼう》した所見でも同じ結論に達したのだった。  門柱の上の門燈《もんとう》もめちゃめちゃにこわれている。犯人が——と、警部は一瞬《いつしゆん》思ったが、先に現場へ来ていた青山署の刑事《けいじ》の話では、昨日《きのう》の夕方、この前で子供が野球の練習をしていてあやまってこわしたということだった。これで警部の疑惑《ぎわく》は晴れたが、それにしても、この暗さは犯人には味方したはずなのだ。きっと、この男がやって来ることを知っていて、植え込みの中にかくれ、やりすごして背後からおそいかかったのだろう。傷の様子から判断してほとんど即死《そくし》——声をたてるいとまもなかったろうと思われる。  死体は一メートル六十センチぐらい、中肉中背の体だった。グレーのワイシャツに黒の背広、ノーネクタイ、年のころは二十七、八だろうが、警部の死顔からうけた印象では前科の一つ二つはありそうだった。  財布《さいふ》の中には、千円ぐらいの金が入っているが、名刺《めいし》や定期や証明書など、身元を知る手がかりになるものは、一つも発見されなかったということだった。  これだけのことをたしかめると、加瀬警部は、煙草《たばこ》に火をつけ、背筋をのばしていい出した。 「とにかく家族の者にあって見よう」     3  米沢家の人々は、お手伝いさんの江藤ハル子を加えて五人だった。  米沢哲雄、裕子の兄弟、その叔父《おじ》にあたる米沢泰二、哲雄の母方の従兄《いとこ》の吉崎信也。  警部はまず米沢泰二から尋問《じんもん》をはじめた。五十がらみのでっぷり肥《ふと》った男で、人あたりもやわらかく、聞きもしないことまでよくしゃべるような性格は、このさい有難いものだった。  米沢哲雄たちの父——泰二の兄は、ある食品会社を経営していた。ところが四年ほど前、脳溢血《のういつけつ》の発作で倒《たお》れ、当時大学三年だった哲雄と、女子大一年の裕子を残して世を去ってしまったのである。母親は何年も前に死んでいたし、二人ともまだ一人前とはいえないから、親族会議の結果、哲雄が一本だちになるまで、泰二がこの事業の経営をひきうけ、また親がわりの面倒《めんどう》を見ることになったというのである。 「何しろ私も妻子に死にわかれて、一人ぽっちの身の上ですから……まあ、不幸なもの同士、あの二人は自分の子供と思っていますよ」  葉巻をくゆらせながら、泰二はつぶやいたが、肝心《かんじん》の死体については、なんの心あたりもなさそうだった。 「昨夜、私は十一時ごろまで部屋《へや》で書類を調べていましたが、なにも気がつきませんでしたね。第一、ああいう愚連隊《ぐれんたい》みたいな男とは、ぜんぜん近づきがありませんよ。哲雄や裕子の知り合いとも思えませんしねえ……」  この言葉には嘘《うそ》はなさそうだった。警部も一応これ以上の追求をあきらめて、次の証人調べにかかった。  米沢哲雄は、大学を出て、一応他人の飯を食って来ようと、ほかの商事会社に就職したというのだが、たしかにちょっと見たところでは、すぐに社長がつとまりそうな感じではなかった。中肉中背のあまり見ばえのしない青年で、黒い背広にネクタイをきちんと結んでいるところはなかなかの堅物《かたぶつ》らしい。 「昨夜は大学当時のクラスの会がありましてね。十時半ごろ、今から帰ると家へ電話したのですが、また喫茶店《きつさてん》へよりたくなって、実際に家へ着いたのは十一時半ごろだったでしょうか。死体にはぜんぜん気がつきませんでした。暗かったので見おとしたのでしょう。私はあまり飲めない方なのですが、昨夜はむりに飲まされて、大分|酔《よ》っていましたし……」  第三の証人、米沢裕子は勝気そうな娘だった。かわいい頬《ほお》をぷーっとふくらまして、 「あたしがあんな妙《みよう》な男とつきあいがあるとお考えになりますの? 昨夜はずっと本を読んでいましたし、べつに気になるようなこともありませんでしたけれど……どうしてあの男はうちの庭なんかで死んだんでしょう。おかげでこっちも大迷惑《おおめいわく》だわ」  となげやりに近い返答だった。  第四の証人、江藤ハル子はまだ十七の小娘だった。青森の田舎《いなか》の中学を卒業して、すぐに上京して来たらしいのだが、いかにもぽっと出という感じで口もろくにきけない。哲雄の帰って来た時間については正確な証言をしたが、この殺人とはどう考えても、関係がありそうには思えなかった。  最後に吉崎信也だが、この人物には加瀬警部もかすかな疑惑《ぎわく》をいだいていた。それは庭先からこの家の道順の略図を描《か》いた彼の名刺《めいし》が発見されたためだった。常識的に考えてこの被害者《ひがいしや》は、名刺の地図をたよりにこの家を訪《たず》ねて来たところを刺《さ》されたのではないかと思われる……。  吉崎信也は一メートル八十以上はあろうと思われる大男だった。すらりとした長身に加えてなかなかの美男子だった。大村証券という会社の社員で、二か月ほど前に、大阪から東京へ転勤になって来たばかりというのだが、たしかに言葉の端々《はしばし》に大阪弁がのこっている。 「ほんとうに死んだ男を?」  加瀬警部が駄目《だめ》をおす言葉も終わらぬうちに、 「知りませんとも。だいたい、こっちにはまだ知り合いもろくにおりませんよって」  と相手は吐《は》き出すように答えた。 「では、これは? 今朝庭から発見されたのですがね」  警部が問題の名刺《めいし》をつきつけると、吉崎信也はさっと顔色をかえ、ぶつぶつと口ごもった。 「まだ、白を切り通すつもりかね?」  警部が鋭《するど》くたたみこむと吉崎信也は首をたれ、思ったよりあっさり告白した。 「申しわけありません……ごたごたにまきこまれるのがいやだったので、嘘《うそ》をついたのですが、実は知っています。牧野健という大阪のチンピラですが、私とは中学時代の同級でして、このあいだ、東京駅でばったりあったものですから、名刺《めいし》をやって、遊びに来いといってわかれたのです」 「証券会社の社員といえば、信用第一がモットーでしょう。それなのに、こういういかがわしそうな男とつきあっておられたのですか」 「いや、そこが友達として……警部はん、そやけど、わてにはしっかりしたアリバイがありまっせ。八時半から午前一時まで、井上|雅子《まさこ》という女子《おなご》と」  興奮のあまり大阪弁になったのだろうが、彼はとたんに声を落としてつけくわえた。 「ただし、このことは哲雄君にはないしょに願います……」     4  大阪と連絡《れんらく》をとったところ、被害者《ひがいしや》は牧野健に違《ちが》いないことが確認された。傷害の前科一犯で、今度もちょっとした事件をおこし、一週間ほど前に、東京へ逃《に》げ出したらしい。  懐《ふところ》も寒くなったので、吉崎信也をたずねていくらか無心しようとしたのだろうということは容易に推定される。なにか、信也の弱点を握《にぎ》っていることも考えられないではない。  こういう意味で彼などは最高の容疑者に違いないが、調査の結果アリバイは予想したよりはるかにしっかりしていた。  井上雅子という娘は、裕子の友人で、哲雄の恋人《こいびと》だったのを、女には手の早い信也が横どりしてしまったものらしい。  二人は新宿のある深夜|喫茶《きつさ》で、ねばっていたらしいのだ。十時半ごろまで、雅子のアパートで過ごし、十一時ごろからこの店へ行ったことは完全に証明される。問題の犯行時間ごろ三十分の空白があるが、十時半に二人がそろってアパートを出たことは、ほかの住人の証言からたしかめられた。  車を飛ばして、この間に現場と往復できないこともなかろうが、それにしては余裕《よゆう》がなさすぎる。  背後からひと突《つ》きという手口は、明らかに計画的なもので、喧嘩《けんか》や何かではない。被害者《ひがいしや》が東京へ来て間もないという事実、現場の位置などから判断して、犯人はまず米沢家に関係のある人物としか思えないが、信也のほかには、牧野健と交渉《こうしよう》のあった者はいないのだ。  警部は刑事《けいじ》たちを動員して、もう一度、米沢家の内情を洗わせたが、その結果、この家には相当のごたごたがあることがわかった。  当然のことだが、哲雄と信也は仲がわるかった。哲雄も恋人を横どりされてからは、  ——どうしてもあいつを追い出してやる。  と何度もいっていたらしい。それをなだめていたのが裕子で、実は彼女は信也に恋しているらしい。もちろん、雅子のことを恨《うら》む点では兄とおなじだが、女ごころはふしぎなものだし、こうしていっしょにいたならば、いつかは信也をとりもどせると思っているのかも知れなかった。  泰二と兄妹との間も、泰二の言葉のように親密なものではなさそうだった。哲雄のほうは、冷飯を食うのにあきて、早く事業をゆずってくれと、しきりにたのんでいるらしいが、泰二のほうは、まだ時間|尚早《しようそう》だといって、なかなか応じないらしい。  現に、この殺人のおこる前の晩にも、二人とも酒の勢いで、激《はげ》しい口論を始めたという。  ——叔父《おじ》さんは、インチキをやっている。自分の腹をこやすことだけ考えて……  ——馬鹿《ばか》! お前にはまだ、事業家としての資格がないのだ。この恩知らず!  などいうやりとりがあった後で、つかみあいの喧嘩《けんか》になるところを、信也にひきわけられたということだった。事実、泰二は兄弟のため、事業のためばかり思っているのではないような聞きこみもあったのだ……。  しかし、信也以外の三人と、牧野健とを結びつける糸は何一つ発見できなかった。三人とも大阪へ旅行したことはあるが、そこのチンピラと何かの接触《せつしよく》があったということはたしかめきれないし、まして殺人を起こすだけの動機があろうとは思えなかった。  牧野健が大阪で傷つけた相手というのも素人《しろうと》で、やくざと違《ちが》って、誰《だれ》かが東京まで復讐《ふくしゆう》にやって来たとも思えない。  さすがの加瀬警部もすっかり途方《とほう》にくれてしまった。     5 「坊主《ぼうず》、また写真か?」  夜おそく、家へ帰って来た警部は、ネガやポジを整理している息子《むすこ》の浩一《こういち》に声をかけた。 「うん、この前の日曜に撮《と》って来たやつ」 「どれどれ」  警部はポジをのぞきこんだ。 「なんだ。これは頭が切れてるじゃないか」 「僕《ぼく》のせいじゃないよ。カメラにパララックスの匡正装置《きようせいそうち》がついてないんだもの」 「パララックス!」  警部の頭に何かが電光のようにかすめた。パララックスといえば、近接|撮影《さつえい》のとき、レンズとファインダーの間におきる視野の誤差——それが一つの鋭《するど》いヒントとなったのだ。 「ねえ、一眼レフだと、こんなことにならないんだよ。新しいカメラ買ってくれない?」 「一眼レフというと高いんだろう」 「アイレス・ペンタなら安いよ。それに性能もいいし、僕《ぼく》が本職のカメラマンになるまで、いやなってからもつかえるよ」 「よしよし、月賦《げつぷ》で買ってやろう。一つ、事件が解決した記念にな。しっかり勉強してりっぱなカメラマンになるんだぞ」 ——この殺人の犯人を見やぶった警部は、やっと父親らしい気持ちにもどっていたのだった。   死人は筆を選ぶ——犯人当て小説 その二——     1 「横山君、遅《おそ》くまでご苦労だったね。帰りにどこかで一杯《いつぱい》やろうか」  加瀬警部と横山部長|刑事《けいじ》が、ある事件の取り調べを終わって、検察庁へ送る調書を作り終わった時には、もう九時すぎになっていた。 「どうもありがとうございます。でも、このぐらいではなかなか音《ね》をあげておられませんよ。第一、捜査《そうさ》課長からして残業じゃありませんか」  横山部長は、いかにもエネルギーが満ちあふれているような巨体《きよたい》をゆすって笑った。  電話が鳴った。噂《うわさ》をすればなんとやら内線の中島|捜一《そういち》課長からだった。 「加瀬君、仕事はすんだかね?」 「はあ、ただいま終了《しゆうりよう》いたしました」 「そうか。それでは疲《つか》れているところご苦労さんだが、もう一仕事やってくれんか」 「事件は?」 「殺しだ。松尾|恒弘《つねひろ》——千代田大学の英文学教授がやられたのだ。住所は|雑司ケ谷《ぞうしがや》二の四四二、墓地《ぼち》のすぐそばの家だがね」  加瀬警部はごくりと生唾《なまつば》をのみこんだ。このごろは大学の数もめちゃくちゃにふえているから、私立大学の教授といっても、一々名前もおぼえてはいられないが、松尾恒弘という人物は、翻訳家《ほんやくか》なり評論家としての方がかえって有名な存在なのだ。加瀬警部もつい二、三日前、雑誌でその名前を眼《め》にしたばかりだった。 「はい、わかりました。すぐまいります」  加瀬警部は電話機をおいて、 「横山君、酒はこの次にしてもらうよ」 「事件ですね?」  横山部長は机の上のメモをのぞきこんで、 「縁起《えんぎ》の悪い番地ですね。シニンが二人頭をあわせてならんでいる」  と眉《まゆ》をひそめた。     2  松尾|恒弘《つねひろ》の邸宅《ていたく》は、戦争前の建築らしい。いかにも古風で堂々とした洋館だが、気のせいか、警部は中に一歩ふみこんだとたんに、胸をしめつけられるような息苦しさを感じた。  現場は奥《おく》の洋間だった。十六|畳《じよう》ぐらいの大きさで、壁《かべ》は大半が書棚《しよだな》になっており、一隅《いちぐう》にはデスク、その反対側の隅《すみ》には、応接用のセットがおいてある。  松尾恒弘は、和服のまま、回転|椅子《いす》にすわり、デスクにうつぶせになって死んでいた。警部がちょっと横顔をのぞきこんだ感じでは五十五、六と思われた。 「妙《みよう》だな」  部屋《へや》を見まわして警部はつぶやいた。回転椅子や、その下の絨毯《じゆうたん》がべっとり血にそまっているのは当然として、その血の糸は、ずっと応接セットのほうまで続いている。 「やられたのはむこうですね。犯人は被害者《ひがいしや》とすわって話をしている間に、突然|凶器《きようき》で先生を刺《さ》し、死んだと思って逃《に》げ出したのですね。しかし、先生は完全に死んではいなかった。最後の死力をふりしぼって、ここまではって来ると、なんとか体を椅子までひきずりあげ、ここへすわって息をひきとったのですね」  横山部長は、警部の心中を見すかしたようにいった。 「うむ、鋭《するど》い短刀かペンナイフのようなもので、心臓近くを一突《ひとつ》きにやられたのだな」 「凶器《きようき》はまだ発見されませんが、犯人はこれを楯《たて》のようにして、自分の体に返り血のつくのをさけようとしたと思われます」  床《ゆか》の上におちていたクッションを指さして目白署の刑事《けいじ》がいった。傷口は左乳の近く、そこを前からやられている。たしかに、常習犯でもないかぎり、これだけの傷をおわせたなら、相手は即死《そくし》したと思うだろう。 「なるほど、それで問題は、なぜ被害者《ひがいしや》が、死力をつくして、ここまではって来たかということだが……」  警部はいま一度、死体を見つめた。顔の下にはメモ用紙らしい紙片がのぞいている。その上には「二」という字が一字書きのこされ、その末端《まつたん》で右手の万年筆がとまっていた。 「妙《みよう》だ……」 「何がです?」  横山部長も今度は警部の真意を読みとれなかったらしい。首をかしげてたずねた。 「なぜ、先生がいまわのきわに、この万年筆を使ったかということだよ。わざわざこれを選んでキャップをぬいたらしいが」  たしかに、死体の左手は、金色のキャップを握《にぎ》りしめている。それなのに、デスクの上のペン皿《ざら》には、鉛筆《えんぴつ》もあれば、すぐ書けるようになっている万年筆も二、三本のっているのだ。 「そういえばたしかに妙《みよう》ですね。握っているのはたしかにプラチナ・オネスト六〇——机の上のはパーカーにシェファーにモンブランですか? パーカーはすぐ書ける体勢になっているのに、なぜ国産品を、わざわざキャップをぬいてつかったんでしょう」 「わからんな。これはたしかに、インキ壜《つぼ》がいらないというキャッチフレーズで売り出している万年筆のはずだが、そういう性能はともかくとして、死ぬことを覚悟《かくご》した人間が、最後にこの一本にこだわったということには、何かの意味がありそうだね……」     3  鑑識《かんしき》の調べが終わると、加瀬警部は机の上のペン皿を克明《こくめい》に調べて見たが、疑惑《ぎわく》は深まる一方だった。二本のパーカーには、ちゃんと青と赤のインクがいっぱいに入っている。シェファーもモンブランもその通り、鉛筆もちゃんと削《けず》ってあって、ちょっとした書き物には何の不自由もなかったはず——松尾恒弘が最期の瞬間《しゆんかん》に、この特定の万年筆に執念《しゆうねん》を燃やした理由はどうしてもわからなかったのである。警部はいちおう、この疑問をタナあげにして、次の段階の調べに移った。  学者の家庭というものは、その妻がよほどしっかりしていないかぎり、どうしても非人間的に冷たくなって来るものだが、この家も例外ではなかったらしい。  まず、恒弘の妻の牧子は、後妻で三十二|歳《さい》の女ざかり、見るからに虚栄心《きよえいしん》の強そうな、どこか険《けん》のある美人だが、聞きこみによると、大学教授夫人という見栄にかられて結婚《けつこん》したものの、性格的にしっくりしないところがあるのか、夫の学問を理解しようとつとめるどころではなく、家族の生活に無干渉《むかんしよう》な夫の性格をいいことに、ひたすら家を明けて遊び歩いているらしい。  恒弘と牧子の間には子供がなく、先妻の残した子供に、省一郎、慶二郎、節子の三人がいるが、省一郎はアメリカ文学研究のために現在ハーバード大学に留学中だというのだから、この事件とは全然無関係と見るほかはない。  次男の慶二郎は、一家の中ではたしかに不肖《ふしよう》の息子《むすこ》らしい。父や秀才の兄に対しては、たえず劣等感《れつとうかん》を抱《いだ》いていたらしいが、大学の入学試験に何度も失敗をかさねたのがきっかけで、すっかりぐれてしまい、家をとび出してしまったというのだ。二年前、家出の当時には、自殺でもしたのではないかとあわてて、家でも捜索願《そうさくねが》いを出したらしいが、三か月後にはひょっこり帰って来た。しかし、その間、どこで何をしていたかということについては、口をつぐんで語らなかったというのである。今では、この家の近くにアパートを借りて住んでいるが、何をしているかはわからない。家へよりつくのは、金をせびりに来る時だけ、しかもそのたびに、 「金をくれないなら、親父《おやじ》に恥《はじ》をかかせてやる。大学教授の息子が、強盗《ごうとう》をやったら、新聞は大喜びで書きたてるだろうよ」  などと、牧子をおどしつけていたらしい。  子供たちの中で、家に残っているのは、二十一になる娘《むすめ》の節子だけだが、この娘はほかの人間にはあたりがいいのに、継母《ままはは》とはぜんぜんそりがあわないらしい。合性が悪いどころか、犬猿《けんえん》の仲らしく、近所の商店の御用聞《ごようき》きも、この二人が口をきいているところは見たことがないといっているくらいだった。  そのほかに、この家には、牧子の甥《おい》で、千代田大学文学部の学生、宇野秀行という青年がいる。これがまた、厄介《やつかい》千万な道楽息子で、勉強もそっちのけに遊びまわり、この前の試験ではカンニングをやって見つかり、無期停学の処分をくった上に、恒弘からは家を出るようにいい渡《わた》されているのを、なかなかいい下宿が見つからないからという口実で、ずるずるいすわっているらしい。  伯父貴《おじき》がついているから、かるい処分で済むだろう——とたかをくくっていたのに、こんなことになったものだから、自分の悪いことはタナにあげて、恒弘を大いに恨《うら》んでいるらしい。  ほかに女中が一人いるが、彼女は郷里に不幸があって帰っている。この殺人には明らかに無関係なのだ。  これだけの予備知識を頭に入れて、警部はさらに細かな取り調べに入った。     4  松尾恒弘の死亡推定時刻は、午後八時前後と見られたが、この前後の各人の所在を聞いて警部はおどろいた。この時刻には、家人は誰《だれ》も家にはいなかったのだ。  牧子は午後からデパートを歩き、それからロードショーの映画を見て、九時ごろ帰宅し、夫の死体を発見して、あわてて一一〇番へ急報したというのである。ただ、八時前後のその動静を証明してくれる者はだれもなく、家に帰って来た姿を目撃《もくげき》した者もいないのだ。  節子はその晩、友人の家へ行っていた。しかし、そこを出たのは七時半ごろで、それから一時間ぐらいは有楽町《ゆうらくちよう》のフードセンターを散歩し、九時ちょっとすぎ、ちょうどパトロールカーがかけつけて来た直後に帰って来たというのである。 「こんなことになると思ったら、出かけませんでしたのに……お父さんは、今夜は一人きりのほうがいい、仕事に気が散らないからとおっしゃったものですから……わたくしの気のせいかも知れませんけれど、だれか秘密にお客でも訪《たず》ねて来るので、わたくしがじゃまになるような感じでしたわ」  眼《め》を真っ赤に泣きはらして節子はいった。 「秘密のお客? それがだれだかは見当がつきませんか?」 「わかりません……」 「でも、どなたも家にいないとすると、お茶も出せないわけですね?」 「父は知らないお方には、紹介状《しようかいじよう》がないかぎり家ではおあいいたしません。ひとりの時は電話のベルが鳴っても出ません。もし、お客さまがあったら、ウィスキーか何かをお出しするつもりじゃなかったんでしょうか?」  書棚《しよだな》の下の一部が酒棚になっていることは警部もすでに調べていた。しかし、テーブルの上には、酒もグラスも出ていなかった。デスクのそばのサイドテーブルに、水さしとコップがおいてあるだけだった。  警部は、自分でもしつこいと思ったくらい節子に食い下がったが、この来客の正体については、ぜんぜんわからなかった。玄関《げんかん》の鍵《かぎ》はちゃんと所定の場所にかかってあるが、内側からはエール錠《じよう》をまわせばすぐに開くようになっている。勝手口の鍵は、牧子と節子が一つずつ持っており、牧子も帰りにはそっちから入って来たのだが、あとでパトロールを迎《むか》えたときには、その錠は開いていたようだったと申したてている。しかし、死体を見てすっかり興奮したことだから、絶対に——とはいいきれないと言葉を濁《にご》した。つまり、来客があったという事実は、積極的に否定も肯定《こうてい》も出来なかったのである。  宇野秀行は、この事件のことも知らないように、十二時ごろ帰って来たが、その時はへべれけに酔《よ》っていた。六時ごろから、ずっとバーを飲み歩いていたというのだが、八時ちょっと前には池袋《いけぶくろ》のバーを出て、それから十時ごろまでは、どこでどう過ごしたかおぼえがないというのである。酔っぱらいに、こういう時間の記憶《きおく》の断層があることは、決して珍《めずら》しいことではないが、この際としては、いかにも不利な条件に違《ちが》いなかった。  しかし、いっそう不利な条件は、次男の慶二郎のほうに存在していた。彼はアパートには不在だったが、やはり十二時ごろ帰って来て、刑事《けいじ》に声をかけられるなり、一目散に逃《に》げ出したのだ。跡《あと》を追いかけた刑事は、半丁ほど先でようやく彼を捕《つかま》えたが、その洋服のかくしポケットからは、ヘロインの一グラム入りの包みが、五つも発見されたのだった。  彼が麻薬患者《まやくかんじや》でないことは、医者の調べですぐにわかったが、こういう物を持って歩いていたところから見て、彼はいわゆる麻薬のバイニンとして生計を立てていたのではないかと推定される。しかし、アリバイの追及にも、彼は頑《がん》として答えなかった。 「いくら、おれがおちぶれても、親父《おやじ》は殺しはしない。嘘《うそ》だと思うなら勝手に死刑《しけい》にしろ」  というのが、彼のふてくされたせりふだった……。     5  翌日、大学の方を調べた結果、新しく二つの事実が判明した。  恒弘の助手をつとめている木下正直という青年は、最初とても彼にかわいがられていて、松尾家にも足しげく出入りし、節子の結婚の相手にも候補にあげられていたらしいが、最近では、どうしたことか、すっかりその仲が険悪になったということだった。  横山|刑事《けいじ》がその点をつっこむと、この二十六の美青年は、困ったように答えたという。 「いや、それは学問上の論争からです。いかに先生は先生でも、学問上の信念は曲げられませんから、それでちょっと反対したら、とたんにご機嫌《きげん》を損じたのです」  それから彼は、その問題を英語まじりで説明したというのだが、百戦|練磨《れんま》のこの部長刑事にも、その論点はさっぱりわからなかったというのだった。犯行当時は、自分のアパートでラジオを聞いていたというのだが、これにも積極的な傍証《ぼうしよう》はない。  それから、ほかの助手たちを調べているうちに、やっとプラチナ万年筆の出所がわかった。つい十日ほど前、井沼波子という女の助手が、恒弘の誕生日《たんじようび》のお祝いとして贈《おく》ったものだというのである。恒弘も上機嫌《じようきげん》で、 「ミス・リップルはえらく年寄孝行だね」  と冗談《じようだん》をいいながら、さっそくその場でためし書きして見て、 「ほう、僕《ぼく》は今まで万年筆は外国のものしか使わなかったが、カメラとおなじで、国産品もずいぶん進歩したものだ」  と喜んでいたそうである……。  これで、万年筆の由来はわかったが、しかし彼が最期にこの一本に妄執《もうしゆう》を燃やしたわけはまだわからなかった。横山部長は、二人の間に恋愛《れんあい》関係があるのではないかと思って、ずいぶん探《さぐ》りをいれたのだが、その結果は否定的だった。人数の少ない研究室で、そういう関係が出来たら、他人に知られないわけはないというのである……。  それから二日の間、警部は深刻になやみ続けた。指紋《しもん》をはじめ、あらゆる物証は皆無《かいむ》である。不動産を主とする財産は相当なものだから、牧子にも慶二郎にも節子にも、動機はないでもないわけだが、これだけでは、だれが犯人かは指摘《してき》出来ない……。  難解きわまる事件だったが、加瀬警部には被害者《ひがいしや》が最後に書きのこした「二」という字と、プラチナ万年筆が最後のきめ手になるのではないかと思われた。  彼は証拠《しようこ》としてとどいているこの万年筆を何時間もいじりまわした。インク入れは、プラスチックの容器につまっているが、そのほかには、これといって変わった特徴《とくちよう》もみつからない。 「弘法《こうぼう》は筆を選ばず、死人は筆をえらぶか」  と吐《は》き出すようにいいながら、彼はからになったスペアインクの筒《つつ》をぬいて、机の上に投げ出した。 「プラチナ、スペアインク、オネスト六〇、ブルー・ブラック」  黄色い文字がくるくると、その眼《め》の前をころげまわったとたん、警部はある秘密に気がついて、思わず椅子《いす》からとび上がった。 「そうだったのか! 犯人は! やっぱり被害者《ひがいしや》はいまわのきわに、最後の力をふり絞《しぼ》って、犯人を告発しようとしていたのか!」   時計はウソ発見機——犯人当て小説 その三——     1  七月五日の朝九時、加瀬警部と横山部長|刑事《けいじ》は、車で渋谷南平台《しぶやなんぺいだい》の一角へのりこんだ。といっても、もちろん新安保条約や岸首相に関係のある事件ではない。  大賀耕治という神戸の商事会社の社長が、ここにある別宅で殺されたという知らせを聞いてかけつけて来たのである。 「警部|殿《どの》、おあついところご苦労さまです」  迎《むか》えに出て来た渋谷署の刑事に、 「そちらこそご苦労さん。デモの次に殺しでは大変だねえ」  加瀬警部もねぎらいの言葉をかけて、 「すぐ現場へ案内してもらおうか」 「はい、少々ややこしい構造の家で、現場は離《はな》れのようになっておりますが」  刑事《けいじ》は庭を通って、母屋《おもや》と渡《わた》り廊下《ろうか》でつながっている一棟《ひとむね》へ案内して行った。  一見して女の居間とわかる、いかにもなまめかしい感じの部屋《へや》を通りぬけて、その奥《おく》の寝室《しんしつ》へ入ると、警部は腕《うで》を組んで部屋を見まわした。 「クーラーも、こうなるとよしあしだな」 「どうしてです?」  横山部長は、眉《まゆ》をひそめてたずねたが、一足おくれてついて来た鑑識《かんしき》課員が、そばから口をはさんだ。 「ルーム・クーラーのある部屋では、死体の温度変化がふつうの場合と違《ちが》うので、死亡時間の推定に、微妙《びみよう》な狂《くる》いが出て来る恐《おそ》れがあるのです。まあ、一応の見当では、午前四時前後というところでしょうが……」 「四時前後? 明け方だな」  警部はひくくつぶやくと、豪奢《ごうしや》なダブル・ベッドの下に転がり落ちて倒《たお》れている寝巻姿《ねまきすがた》の五十五、六の男を見つめた。これが大賀耕治に違いない。 「絞殺《こうさつ》だな」 「そうです。あまり抵抗《ていこう》した様子がないところを見ると、寝《ね》こみをおそわれたのでしょうが、紐《ひも》を使っていますから、女でも出来ないことはありますまい」  鑑識《かんしき》課員の言葉に、警部は大きくうなずいて、ベッドのまわりを注意深く見まわした。  サイド・テーブルの上には、水さし、灰皿《はいざら》、葉巻一箱、何やら数字をいっぱいに書きこんだ紙片に鉛筆《えんぴつ》、それに男物の腕《うで》時計と、女物の腕時計が一つずつのっている。  ほかには、特に興味をひくような物もなく、家具調度も、いかにも金はかけていそうだが、調和や統一にはとぼしく、全体として、ごてごてした派手好《はでごの》みな女の性格を反映しているような感じだった。 「ダブル・ベッドに一人で寝《ね》ていて殺されたとは、何ともお気の毒な話だが、女のほうはどうしたのかな?」  横山部長|刑事《けいじ》が、ひとりごとのようにいいかけたとき、ジリジリという奇妙《きみよう》な音が、部屋《へや》中にひびきわたった。  指紋《しもん》の検出を終わった腕時計からだった。     2 「やはり一社の社長となると、いい時計を持っていますね。女物のほうはローヤルのようですが、こっちはウォルサムの最新型、デイタラームといって、日付のカレンダーと眼《め》ざましのついたやつですよ。この通り、竜頭《りゆうず》が二つついているでしょう」  横山|刑事《けいじ》は、その時計をとりあげて、加瀬警部に説明した。 「くわしいな。君は時計屋の息子《むすこ》だったかな」 「いや、私の叔父《おじ》が時計をあつかっているので……」  刑事は半《なか》ば無意識のように、竜頭に指をかけて、ねじをまいていたが、ほんのちょっとまわしただけで止めてしまった。 「ほとんど一杯《いつぱい》にまかれていますね……これで自動巻き装置《そうち》になっていれば文句のないところですが、現在の技術では、日付のカレンダー、アラーム、自動巻きの三つの機構のうち、二つしか組みこむことが出来ないそうです」  刑事はそれからかるい苦笑を浮《う》かべた。 「これは失礼。時計の受け売りの講釈をしている場合ではありませんね。ショックで時計が止まっていて、犯行時刻を正確に示しているというような場合ならばともかく……」 「機械は非情なものだからな。持ち主が死んでも正確に時を刻んでいるよ」  警部もちょっと感傷的なせりふを吐《は》いたが、すぐわれに帰ったように、 「とにかく、ここの住人たちを尋問《じんもん》して見よう。応接間かどこか、あいている部屋《へや》はあるんだろう」  といいながら、現場を出た。  母屋《おもや》の応接室へ入ると、警官がまず四十ぐらいの眼《め》の鋭《するど》い男をつれてやって来た。  被害者《ひがいしや》の従弟《いとこ》で、村越和男といい、大賀商事の東京支店の次長をしているということだった。  この家は、十年ほど前、大賀耕治がほとんど捨て値で手に入れたらしい。もちろん、商売がら、毎月|神戸《こうべ》の本社と東京の間を、数往復するというのだから、神戸に本宅、東京に別宅という生活もおかしくはないが、そこにいわゆる東京ワイフだけではなく、会社に関係のある人間をごちゃごちゃつめこんでいるところが、関西商人らしいがめつさだろう。  神戸の本宅のほうには、園枝《そのえ》という正夫人と、三人の子供がいるらしいが、さっそく飛行機で上京して来るということだし、そちらの調査は後まわしにしてもよいと警部は考えた。  現在ここに住んでいる女は、光村|珠代《たまよ》という映画のニュー・フェースらしい。彼が相手にして、ここに住まわせている女は、平均二年ぐらいの寿命《じゆみよう》しか持たないというのだが、この女がこの家へ入って来てから、一年七か月になるというのだから、そろそろ倦怠期《けんたいき》にさしかかったころかも知れなかった。 「それで、その光村さんはどこにおられるのですか?」  警部の質問に、相手は眉《まゆ》をひそめて、 「昨夜九時ごろ、横浜にいるお母さんが危篤《きとく》だという電報があって、急いでとび出して行ったのです。これが奥《おく》さんのお母さんなら、社長も当然いっしょに出かけたところでしょうが、そこは何しろ愛人ですからね」  と、日ごろの胸のつかえを吐《は》き出すような口調でいった。     3  広い家には違《ちが》いないが、たしかにこの家は雑居房《ざつきよぼう》のような感じだった。  母屋《おもや》に住んでいるのは、村越和男とその妻の芳子《よしこ》だが、この女は胸をわずらって、三か月ほど前から入院中だということだった。それから、被害者《ひがいしや》の伯父《おじ》の松崎|武則《たけのり》、会社の仕事にはタッチしていないのだが、個人的な投資の切りまわしをしているらしい。それに、神戸から同行して来た秘書の貝森|憲一《けんいち》、書生として住みこんでいる藤代|勇《いさむ》というW大学の学生、石原利江と近藤みどりという二人の女中——これが昨夜、この家にいあわせた人々だった。  現場の状況《じようきよう》や、犯行推定時刻などをにらみあわせて、外部から犯人が侵入《しんにゆう》したということはまず考えられなかった。  加瀬警部は、いちおう容疑者をこの六人の線に絞《しぼ》って、取り調べを進めて行った。  被害者《ひがいしや》と、最後に顔をあわせたのは——という質問に、村越和男はこう答えた。 「珠代《たまよ》さんが出かけてすぐ、私はちょっと離《はな》れへ顔を出して見ました。社長は気がぬけたように、ウィスキーなどを飲んでいましたが、あまり心配しているような様子もなく、  ——まあ、今夜はゆっくり休養しろという天命なんだろうから、そろそろ寝《ね》るとするか、  などといっておりましたから、私もウィスキーを一杯|相伴《しようばん》しただけでひき下がりました。十時ちょっと前のことでしたが……」  村越和男の尋問《じんもん》が、こんなふうにして終わりかけたとき、廊下《ろうか》の外がさわがしくなった。そして、警官の制止をふり切るようにして、花模様のワンピースを着た一人のわかい女がとびこんで来た。 「あの人が……あの人が殺されたんですって……罠《わな》、罠だったのです!」  血相をかえ、うわごとのような言葉をもらすと、ハンカチを眼にあてて、激《はげ》しくしゃくりあげた。 「光村珠代さんですね。罠——とは、いったいどういう意味なのです?」  警部が鋭《するど》くたずねると、 「あの電報はにせものだったんです……家へ帰って見たら、母はなんともなくて……変だなとは思ったんですが、誰《だれ》かのたちの悪い悪戯《いたずら》だろうと考えて、そのまま昨夜はむこうに泊まってしまったんです……わたしをさそい出して、パパを殺そうとした、犯人のたくらみに違《ちが》いありません!」  珠代はヒステリックにしゃべりまくったが、これは警部にはそれほど意外なことではなかった。犯行が計画的なものだとすれば、犯人がこの程度のトリックを仕掛《しか》けることは、むしろ当然といってよいのである。 「それでお出かけになったのは?」 「九時二十分ごろのことでした。わたくしもあまりあわてて、時計を忘れたくらいですから、正確な時間はわかりませんが……」  裏の秘密はともかくとして、直接手を下した犯人としては、この女は除外していいだろうと、警部は思った。それからも、あれこれと、質問を続けて見たのだが、珠代は大げさと思われるくらいの愁嘆《しゆうたん》を続けるだけだった。     4  松崎武則は六十三ということだったが、体格はたくましく、皮膚《ひふ》もまだつやつやしていた。だが口調はいかにも老人らしく、 「私もむかしは兜町《かぶとちよう》と蠣殻町《かきがらちよう》で大相場をはって、松崎将軍とまで呼ばれた男です。耕治を世話してやったのもそのころですが、昭和十五年を境として、その後は、すべて事志と違《ちが》いましてな……何をやってもうまく行かず、あべこべに耕治の世話になるようになってしまいましたが……いま、耕治に死なれては、これから先もどうなるやら……」  などと、溜息《ためいき》まじりのくりごとを、くだくだならべたてるのだった。まだ体のほうが、完全に老いこんでいないだけに、こうして居候《いそうろう》のような身分になり下がった自分が情なくてたまらないのだろう。 「それで、耕治さんと最後におあいになったのは?」 「あれは十一時ちょっと前だったと思います。友達のお通夜から帰って来て、株のことでどうしても話しておきたいことがあったので、まだ起きているかな——と思いながら、離《はな》れをのぞいて見ました。もちろん、彼女がいたら、私も遠慮《えんりよ》したでしょうが、お手伝いに聞いたら出かけたというので」 「なるほど、それで?」 「行ってみたら、耕治はもうベッドに入ってぐーぐーいびきをかいていました。起こすほど急ぐことでもないので、私も引き返して寝《ね》てしまいましたが」 「その時、べつに異状はなかったのですね」 「もちろんです。なにしろ、あの部屋《へや》は冷房《れいぼう》ですから、真夏でも、窓は密閉していますし」 「それから、老人の方——と申しては失礼ですが、一般《いつぱん》的に年をとると、耳ざとくなるという話ですね。夜中に——というよりも、明け方近く、何か妙《みよう》な物音でもお聞きになりませんでしたか?」 「さあ……いっこうに……あの離《はな》れでの物音は、よほど大きなものでないと、母屋《おもや》までは聞こえないと思いますよ」  結局、彼の証言からも大して得るところはなかったのである。次に呼ばれたのは、秘書の貝森憲一だった。三十二で、学生時代には柔道《じゆうどう》の選手をしていたということだが、いかにもスポーツで鍛《きた》えたような体格だった。 「珠代さんが出かけられて間もなく、神戸から長距離《ちようきより》電話がありまして、かなり重要な問題を知らせて来たのです。社長がおひとりなことはわかっておりましたから、すぐ離れへお知らせに参りましたが、そのとき、おあいしたのが最後になったのです」  憲一は、沈痛《ちんつう》な表情を浮《う》かべながら、要領よく答えた。 「それは何時ごろでした?」 「十時ちょっと前だったと思います」 「その時、大賀さんはお一人だったのですね」 「もちろんです」 「それから、あなたはどうしました?」 「私の割り当ての部屋《へや》へもどると、三十分ほど本を読んで寝《ね》てしまいました」 「なるほど……その重要な報告を持って行ったときの大賀さんの様子は?」 「やはり、問屋の倒産《とうさん》となると、こちらにもいろいろとひっかかりはありますから、大分心配しておられたようですが……前にも例がなかったことではありませんし……」  貝森憲一は、慎重《しんちよう》な態度で答えた。     5 「まるでコンニャク問答ですな」  この四人の取り調べが終わってから、横山部長刑事は溜息《ためいき》をついていったが、ほかの三人に対する尋問《じんもん》は、さらに手ごたえがなかった。  藤代勇は、五時ごろ、会社から帰って来た被害者《ひがいしや》に顔をあわせたのが最後だということだし、母屋《おもや》づきの女中、石原利江も、べつに変わったこともいわなかった。離《はな》れづきの女中近藤みどりは、三十八度の熱で、夕方から寝《ね》こんでしまったというし、誰《だれ》の話もぜんぜん役にはたたなかった。  ほかの三人はいちおう昨夜、離れへ行ったことは認めているのだが、肝心《かんじん》の犯行時刻と推定される午前四時前後には、みんな自分の部屋《へや》で寝ていたというばかり——もちろん、時刻が時刻だから、それも当然か知れないが、誰にも完全なアリバイはなし、かといって特にあやしむべき点もなかったのである。  殺人現場を詳細《しようさい》に調べあげた鑑識《かんしき》のほうからも、これというきめ手は見つからなかった。珠代にでたらめな電報を打った人物をつきとめようとする工作もうまく行かなかった。  神戸からかけつけて来た園枝夫人の話を聞いても、体に自信のある耕治は、遺言状なども作ってはいないようだった。ただ、松崎武則には、よほどむかしの恩義を感じているらしく、自分が死んでも、一生|面倒《めんどう》を見てやってくれと、日ごろからいっていたということだった。それ以外の財産はすべて園枝や子供たちに行くわけだし、松崎武則としては、好意の寄贈《きぞう》を期待するわけだったのである。  珠代がどういうことになるか、警部は疑問に思って、貝森憲一にたずねて見たのだが、この秘書は苦笑《にがわら》いして、 「いままでの例ですと、手切れ金は三十万——ただ奥さんの気持ちで、今度は多少の増減があるかも知れませんが」  と答えただけだった。  捜査《そうさ》当局の一部では、珠代が犯人ではないかという説も生まれていた。彼女が家で一夜を明かしたことを証明できるのは、その母親だけだし、珠代なら離《はな》れの入り口の鍵《かぎ》も持っているから、いつでも自由に出入りができる……しかし、積極的に彼女が犯人だという証拠《しようこ》もないのだった。  なにしろ、最近のわかい女性は、貞操《ていそう》観念も稀薄《きはく》だから、珠代もパトロンはパトロン、恋人《こいびと》は恋人と割り切って、ほかにも若い男と浮気《うわき》をしているらしい。渋谷署のある刑事《けいじ》などは、村越和男との間にも関係があったのではないかと勘《かん》ぐったが、これにも積極的な証拠《しようこ》はなかった。 「犯人の範囲《はんい》は限定されている。そのうちの誰《だれ》がやったかだが……」  その翌日、捜査本部で苦吟《くぎん》をつづけていた加瀬警部は、突然《とつぜん》はっと膝《ひざ》をうった。 「ウォルサムだ! あの時計だ!」 「えっ! あの腕《うで》時計がどうかしましたか?」  横山部長刑事は不審《ふしん》そうにたずねた。 「あれには盗難《とうなん》保険がついていますから、窃盗《せつとう》事件なら関係もあるでしょうが、この殺人とどんな関係が? 指紋《しもん》も被害者《ひがいしや》のもののほかには一つも発見されませんでしたが」 「そうじゃない。あの時計のおかげで、僕《ぼく》にはホシの目あてがついたんだ。あのコンニャク問答も、こうなるとむだじゃなかったよ。あいつはとんだ嘘《うそ》をついている。きっと、犯人に違《ちが》いあるまい」 「時計が何を……」 「ウォルサムというのは、たしかにすばらしい時計だよ。今度の事件では、ウソ発見機の役まではたしたんだからね」  加瀬警部は、いかにも肩《かた》の重荷をおろしたような笑いを浮《う》かべた。   苦労性な犯人——犯人当て小説 その四——     1  矢島道夫は優秀なセールス・マンだった。  仕事には実に熱心だし、ファイトも旺盛《おうせい》で攻撃《こうげき》精神に富んでいた。押《お》しと粘《ねば》りと、女に対するやさしさと、この商売に必要な素質は十二分に持ちあわせていた。  だから、彼はリッカー・ミシンのこの支店では、たえず第一の成績をあげていた。いやこの会社の全国のセールス・マンたちの間でも、毎月相当上位の成績だったのである。  九月初めのある朝、その日の打ち合わせのために支店へ顔を出していた彼に、名ざしの電話がかかって来た。  知らない女の声だった。かぜでもひいているのか、喉《のど》に何かひっかかっているようなその声は、まるで男のようだったが、一般《いつぱん》的に論ずるなら、男はミシンなどには何の関心もない。この相手は女だと、彼は強固な先入主を持っていたのである。 「あの、前に大阪で、おたくのミシンを買ったんですけれども、たいへん調子がいいもので、今度|娘《むすめ》の嫁入《よめい》り道具に、新しいのを一台、持たせてやろうと思いまして……」  ミシンの国内での売れ行きは、新世帯の数にほぼ一致《いつち》するといわれている。彼はこの電話の内容には何の疑問もおこさなかった。 「それはおめでとうございます。私どもの製品は永久アフターサービスつきでございまして……」  なれたせりふが飛び出したが、相手はその言葉をさえぎるように、 「娘はつとめに出ておりますから、勝手ですが、今晩七時に家へ来ていただきたいのです。住所は世田谷区代田一ノ七二六、笠井晃《かさいあきら》、小田急の|梅ケ丘《うめがおか》駅からすぐなんです」 「かしこまりました。七時でございますね」  メモに写しとった住所氏名をにらみながら、彼はもう一度だめをおした。 「ええ、時間の点は正確におねがいします。いろいろ都合もありますので」 「承知いたしました。それでは間違《まちが》いなくその時刻に上がりますから、どうぞよろしく」  この話の様子では、すぐその場で契約《けいやく》がとれそうだった。万事につけて几帳面《きちようめん》な彼は、七時ちょうどに笠井家のベルをおしてやろうと決心した。     2  約束《やくそく》の七時ちょっと前に、彼は目的の家の近くまでやって来たが、そのとき、後ろから若い女の声が聞こえた。 「あら、リッカー・ミシンの方じゃない?」  商売がら、人の顔はよくおぼえているほうだったから、その女の名前はすぐに思い出せた。一月ほど前、月賦契約《げつぷけいやく》をしてくれた木浦綾子《きうらあやこ》という女だった。  二十五、六のなかなかの美人で、たしか光和貿易という会社につとめているはずだった。 「木浦さんでございましたね。先日はいろいろありがとう存じました。機械の調子はいかがでございますか?」 「よく名前をおぼえていて下さったわね」  相手は魅力《みりよく》たっぷりな笑いを浮《う》かべた。 「お客さまの中でも、おきれいなお方のことはなかなか忘れられませんから……」 「お上手《じようず》ね。誰《だれ》にでもそんなことをおっしゃるんでしょう? ところでミシンのことなんだけど、おたくに連絡《れんらく》しようかと思っていたところなの」 「どこか具合が悪いのですか? それでしたら、責任を持って修理いたします。うちでは永久保証をモットーとしておりまして、たとえば伊勢湾《いせわん》台風の後では、七千台のミシンを全部無料で修理いたしましたが……」 「その話はこの間うかがったけれど、実はわたしのボーイ・フレンドが遊びに来て、いじりまわしてから、調子がちょっと変なのよ。彼は機械を見るとすぐにいじりまわす悪趣味《あくしゆみ》があるのよ。ちょっと寄って見て下さらない」 「はい、かしこまりました。ちょっとぐらいのことでしたら、私にもわかると思います。ただ、七時にそこの笠井さんのお宅へうかがうお約束《やくそく》になっておりますから、その後でもよろしゅうございますか?」 「笠井さんの?」  綾子はふいに口を閉じ、目を大きく見ひらいて、いかにも不審《ふしん》そうな表情を浮《う》かべた。  矢島道夫は目で彼女の視線を追ったが、そのとき、三、四軒先の家から、一人の男があわてて飛び出して来たのが見えた。その姿はたちまち角を曲がって見えなくなってしまったが、その行動はどう考えても少し妙《みよう》だった。 「あの家が笠井さんのお宅なのよ。でも、いまの男は泥棒《どろぼう》かしら?」  矢島道夫も実は同じことを考えていたのだ。 「行って見ましょう」  木浦綾子はうなずいた。「笠井晃」と表札《ひようさつ》の出ている家の前まで走って行って呼鈴《よびりん》を押《お》したが何の返事もない。玄関《げんかん》のドアは開いたままだった。道夫は無意識に時計を見た。七時三分すぎだった。 「おかしいな……七時、時間厳守といわれていたんだが……」  彼がわれを忘れてひとりごとをいうと、綾子は青ざめた顔をかすかにふるわせて、 「わたし、何だか胸さわぎがするわ……入って見ません? ここのお宅なら、わたし、よく知っていますから」 「そうですね」  道夫はちょっとためらったが、そのとき妙《みよう》なものに気がついた。玄関の上がり口のところについている妙なしみ……それはたしかに血痕《けつこん》だった。 「行って見ましょう!」  彼は持ち前のファイトを爆発《ばくはつ》させて家の中へ飛びこんだ。そして間もなく、この家の六|畳間《じようま》で、ミシンのそばに血まみれになって倒《たお》れている女の死体を発見したのである。     3  矢島道夫の急報で、すぐ警察からは刑事《けいじ》がかけつけて来たが、警視庁から加瀬敬介警部と横山部長刑事たちが到着《とうちやく》したのは、午後八時ちょっと前のことだった。 「被害者《ひがいしや》はこの家の主婦、笠井奈美子という話だったね。まず現場へ」  刑事にだめをおして、奥《おく》の六|畳《じよう》に入った加瀬警部は、三十四、五の女の死体をいちおう調べ終わると、今度は縫《ぬ》いかけのスカートがそのままになっているミシンをじっと見つめた。 「縫い目の最後がひどく乱れているな。ミシンをかけている最中にやられて、倒《たお》れた時に布がひきずられたのだろうな」  ひとりごとのようにつぶやくと、今度は横山部長の顔をじっと見つめて、 「後ろからなぐりつけて失神させ、椅子《いす》から転がり落ちたところを、前から胸を刺《さ》したとなると……」 「犯人は足音をひそめて後ろからしのびよったか、それとも被害者とは熟知の仲だったので、油断していたということになりますね」 「それもそうだが、僕《ぼく》にはこの犯人が、えらい苦労性だったという感じが来る」 「そうですね。ただ背中を刺しただけでは、目的を達しきれない恐《おそ》れがあると思ったのでしょうか。でも一度失神させた後なら、首をしめた方がかんたんに片づくはずですが……よほど血に飢《う》えていたのか、それとも首をしめたぐらいでは生き返る恐《おそ》れがあると思ったのでしょうか……」 「まあ、ここは鑑識《かんしき》の連中にまかせて、われわれはこっちの捜査《そうさ》をはじめようよ」  警部にはもう何の感傷も見られなかった。  鑑識の所見では、死亡推定時刻は、六時から七時の間ということだった。  笠井晃というのは、光和貿易の課長だという話だったが、会社へ連絡《れんらく》しても誰《だれ》もいないし、どこにいるかもわからないし、いまのところ手の打ちようもなかった。  だから捜査は第一に、矢島道夫の尋問《じんもん》となったのだが、この電話のことを聞いて、警部は首をひねらずにはおれなかった。 「それで、あなたはこの被害者《ひがいしや》とぜんぜん未知の関係だったのですね?」 「最初はそう思っていたのですが、やっといま思い出しました。七年ほど前、一台買っていただいたことがあります。ただ、電話の声がご本人だったかどうかは申しあげかねます」 「でも、この夫婦には子供がないそうです。ですから、新しいミシンは必要がなかったわけですね?」 「そうです。電話では大阪で——ということでしたが、私がお願いしたときのお宅はこの近くでした。それに……うちの契約者《けいやくしや》の年齢《ねんれい》は六十五|歳《さい》のおばあさんから、生後六か月の赤ん坊《ぼう》までまじっているというのですが、その話がぜんぜんでたらめだったとすると、あの電話はにせ電話だったのでしょうか? 私を擬似《ぎじ》犯人にしたてるねらいで……」  さすがの矢島道夫も真っ青になっていたが、警部には、まだ何ともいいきれなかった。  擬似犯人としては、被害者《ひがいしや》と関係もなさすぎる。それから警部は一転して、この地区と彼との関係をたずねたが、この付近は彼の縄《なわ》ばりだから、彼は近くの団地も含《ふく》めて、百台近くの契約《けいやく》をとっていたのだ。犯人がこの人物を知っており、何かの道具に利用したことは、十分可能性があるのだった。     4  木浦綾子のほうの調べも、たいした収穫《しゆうかく》をあげなかった。彼女は埼玉の生まれで、学校を出てから伝手《つて》があって、光和貿易に入社したというのだが、洋裁はごく最近はじめたばかりらしい。  あの時、家からとび出して来た男にしても、矢島道夫は、やせ型で背が高かった——といっていたが、綾子のほうは、グレイがかった背広を着ていた——というばかり、二人の証言をつきあわせて見ても、その人物の正体はつかめそうにもなかった。  ただ、それが笠井晃でなかったことだけは、綾子も割合はっきり断言できたのである。  しかし、この女の証言には、一つだけ、警部をおやと思わせたことがあった。現場の隅《すみ》に落ちていたライターは、西ドイツのギンベルという会社の製品で、ちょっと変わったものだったが、綾子はこれに見おぼえがあると、はっきりいったのである。  おなじ会社のおなじ課につとめている山崎実というまだ独身の青年が、最近|欧州《おうしゆう》旅行から帰った兄の土産《みやげ》だといって、自慢《じまん》そうに見せびらかしていたのと同じ種類のものだと証言したのだった。  笠井晃は十時ちょっと前に帰って来た。男ざかりの四十一で、頭は少しうすくなっているが、銀座あたりのバーでは大いにもてそうなタイプだった。酒はいくらか入っているようだったが、さすがにこの話を聞くと青くなった。  死体の確認をすませると、警部はかんたんに悔《くや》みの言葉をのべ、尋問《じんもん》にかかった。 「今日は会社を四時に出て、ビヤホールで一時間ほど飲んでいました。最近は、家内もそろそろ更年期に近づいたせいでしょうか、ヒステリーばかりおこしていて、帰っても面白くないものですから、ロードショーの映画を一本見て、それからバーにちょっと寄って、いま帰って来たところです」 「それでは、こう申してはなんですが、あなたのアリバイはたたないわけですな」 「そういうことになりましょうな」  笠井晃は苦笑《にがわら》いしていた。 「モギリの女の子が顔を見おぼえてくれるか、それとも中で知っている人間にでもあっていたらよかったんですがねえ。なかなか、そういうことは望めますまい」 「それで、奥《おく》さんとの不仲の原因《げんいん》は?」 「結婚《けつこん》してから十五年もして、子供も出来ないとなると、誰《だれ》しも一種の倦怠期《けんたいき》にさしかかるんじゃないでしょうか。といって死ぬの殺すのというほど深刻なものでもなし、別れるという話を持ち出したことも一度もなかったのですが……でも、家内にはかわいそうなことをしたと思っています。こう早く死にわかれると知ったなら、もう少しつくしてやればよかったと、これも今となっては、後悔《こうかい》先に立たずでしょうが……」  彼は初めてハンカチで目をおさえた。いままで冷酷《れいこく》な偽悪者《ぎあくしや》をよそおっていたその本性が、一瞬《いつしゆん》に爆発《ばくはつ》したという感じだった。     5  翌日、山崎実は証人として任意出頭を命じられた。もちろん、前夜から下宿へは刑事《けいじ》が訪《たず》ねて行ったのだが、彼は一晩帰って来なかったのである。  背の高いやせ型の青年だった。なにか隠《かく》していることでもあるのか、落ち着きは全然なくしていた。昨夜はなじみのバーの女のアパートに泊《と》まったことを告白したが、警部は次の瞬間《しゆんかん》するどく急所をついた。 「それで、七時ごろにはどこに?」 「新宿でパチンコをしていました」 「このライターは?」  山崎実はとび上がった。 「それはどこに?」 「死体のそばにあったのですよ。これがあなたの物だということは、おたくの会社の木浦さんも、笠井さんも証言しています」 「いや、ライターというものは……よくなくするもので……たしかに私の物ですが、二、三日前|紛失《ふんしつ》して、兄にもすまなかったと思っていたのです……」  言葉の調子は乱れがちだったが、警部は相手の動揺《どうよう》にさらに追いうちをかけていった。 「ところで、犯行推定時刻の直後、午後七時ごろ、あなたが笠井家の玄関《げんかん》から飛び出したのを目撃《もくげき》したという証人が、二人もあらわれたのですがねえ」  山崎実は真っ青になった。最初は何の彼のと逃《に》げを打って、言を左右にしていたが、結局警部の鋭《するど》い追及《ついきゆう》にたえかねて、ある程度の事実を告白した。もちろん、その真偽《しんぎ》はべつとして、彼の言葉によると——  その日の午後、会社へ電話がかかってきて、奈美子から主人のことについて聞きたいことがあるから、七時ごろ家へよってくれ、といわれたというのである。  奈美子と彼とは、遠い親類になっており、前にも二、三度家を訪《たず》ねて行ったことがあるから、その晩も何気なく家を訪ね、殺害直後の死体を発見して、あわてて飛び出したというのだった。  ここまでは、話の筋も通っている。しかし身におぼえのない人間なら、この後ですぐ警察へかけこむか、一一〇番へ電話をするのが当然だろう。ここをつかれて、山崎実はしぶしぶ奈美子と肉体関係があったことを認めた。この夫婦の仲は、笠井晃が告白した以上に冷却《れいきやく》していたらしい。よほど合性が悪いのだろうか、奈美子の言葉に従えば、この数年は夫婦関係もほとんどなかったというのであった。  奈美子がこうしてよろめいたのも、夫の満たしてくれない欲望の爆発《ばくはつ》のせいかも知れないし、また警部がほかから確かめたところによると、笠井晃は三年ほど前、会社のある女と間違《まちが》いをおこし、辛《かろ》うじて地位を保てたということだったが、その事件も、こういう不和から起こる当然の結果かも知れなかった。  これで、山崎実の奇怪《きかい》な行動の理由もいちおう説明はついたわけだが、警部はまだこの青年を黒とも白ともきめきれなかった。  近所の聞きこみでは一つ新しい情報がわかった。奈美子の弟に佐山|豊治《とよじ》という二十《はたち》ぐらいの青年がいるが、その情婦の世津子という女がミシンの詐欺《さぎ》を働いたというのだ。つまり月賦《げつぷ》の頭金だけをはらいこんで、品物をうけとり、それをよそへ流してしまったという事件だったが、その契約《けいやく》をとったのも、矢島道夫だったのである。  佐山豊治自身も愚連隊《ぐれんたい》の一人で、時々姉のところへ小遣《こづか》いをせびりに来ていたらしい。現にこの日も夕方近く、この家へやって来たところを目撃《もくげき》した人間があったのだが、豊治はどこへ行っているのかなかなか、警察には捕《つか》まらなかったのである……。  きめ手というもののない事件だった。しかし、加瀬警部はまる二日|苦吟《くぎん》を続けたあげく、やっとある推論に到達《とうたつ》した。 「そうか。犯人は苦労性だったんだな。この上もない苦労性……」  警部はひとりごとのようにつぶやくと、目をあげて横山部長刑事《けいじ》にいった。 「横山君、どうやら犯人はわかったようだよ」   自動車収集|狂《きよう》——犯人当て小説 その五——     1  吉岡茂は、個人で百三十六台の自動車を持っていた。  ロールス・ロイスを第一号として、キャデラック、クライスラー、ビューイック、あげくのはては、トラック、バス、ブルドーザーから消防自動車に至るまで、百三十五台、同じ型の車は一台もないというのが最大の自慢《じまん》だった。  そして、彼が手に入れた百三十六台目の車は、スバル三六〇だったのである。  もし、これが本物だったなら、アラビヤの王様のように豪勢《ごうせい》な話だが、あいにくトラックにもはつかネズミぐらいしか乗れなかった。元|横綱《よこづな》の吉葉山でも乗りまわせるというスバルに至っては、ハエぐらいしか乗れなかった。  すべてが精巧《せいこう》な模型だった。どれも、実物をそっくり縮小したような、精巧《せいこう》きわまるものばかりだった。 「どうだね。これは、珍品《ちんぴん》中の珍品だろう」  吉岡茂は、この新車を掌《てのひら》の上にのせて、鼻高々で、友人たちを見まわした。もともと愛くるしい車が、長さ十センチぐらいにちぢまっているのだから、こんなかわいい車もない。  この場にいあわせた五人のうち、三人はいっせいに溜息《ためいき》をつき、残りの二人はにやにやと笑った。  この六人はみんな自動車|狂《きよう》だったが、そのうち模型収集狂は四人、いま笑った二人は本物にしか関心がなかったのである。 「おれの持っている実物のほうがいいな」  田原修治は鼻で笑った。彼は涙《なみだ》ぐましい努力を続けて、最近やっと本物のスバルを手に入れたのだ。 「僕《ぼく》のフォードは五二年型だが、それでもちゃんと動くからな」  倉石義道も負けずにいった。  しかし、他の三人、浜野常太郎、金子進、中崎隆一は、そんな野次《やじ》など耳には入らないらしく、よだれをたらさんばかりにして、吉岡茂の手もとを見つめていた。 「三千円出そう。ゆずってくれ」  本物の車は一台もないが、模型は五十三台持っている浜野常太郎が目を光らせた。 「三千円? ふン、三万円でもいやだね」 「三万円も出せば、ポンコツが一台買えるぜ」  金子進がふとい吐息《といき》をもらしていった。彼は本物にも関心があるが、その愛用車は、どんな自動車通が見ても、原型は何か、首をひねるようなしろものだった。彼の最大の夢は、いつか物好きな外人が、最高級車で追いかけて来て、  ——この珍車《ちんしや》と自分の新車と交換《こうかん》しないか。  と申しこんでくれることだった。 「三万円ぐらいの車じゃしようがないな。僕《ぼく》のラビット、スーパーフローのほうがいい。百キロまでは悠々《ゆうゆう》出せるし、トルク・コンバーターのおかげで出足もいいし、百三十七台目にはそいつを買うんだね」  中崎隆一も、模型収集|狂《きよう》には違《ちが》いないが、今日は負け惜《お》しみのように、この新車のことにはふれなかった。 「どうかね。ただの玩具《おもちや》ならともかく、模型じゃ、これ以上小さいものはできないんじゃないのかな。とにかく世界にただ一台しかないんだからな。珍品《ちんぴん》中の珍品だよ」  吉岡茂が、得意の鼻をうごめかしたとき、浜野常太郎があわてて叫《さけ》んだ。 「おい! 何だか、こげくさいぞ!」     2  思いがけない出火だった。このコレクションを見ようとして、応接間を出てこちらの部屋《へや》へやって来たとき、誰《だれ》かが不用意に、ガスストーブの上に、自動車雑誌を棚《たな》からおとしたらしいのだ。 「水だ! 水だ!」  どんなに精巧《せいこう》なできばえでも、模型の悲しさに、消防自動車は役にたたなかった。六人は右往左往して、ようやくこの火事を消しとめた。幸い被害《ひがい》はほとんどなかった。  誰の責任か、損害が多かったか少なかったかはべつとして、こういうことがあると、どうしてもその場の空気は気まずくなる。五人の客は間もなくひきあげて行ったが、吉岡茂はその後で大変なことを発見した。せっかくの新車スバル三六〇が、姿を消していたのである。 「畜生《ちくしよう》! 誰か火事ドロをやりやがった!」  収集|癖《へき》が高じると、誰でも珍品泥坊《ちんぴんどろぼう》をやりかねない。彼は、髪《かみ》をかきむしってうめいた。  そこへ真っ青な顔をして帰って来たのは、妹の邦子《くにこ》だった。 「兄さん、たいへん、たいへんよ!」 「たいへんなのはこっちだ。誰《だれ》かがおれの大事なスバルの模型を……」 「玩具《おもちや》どころのさわぎじゃないわ。大島産業が不渡《ふわた》りを出したんですって」  この話には、吉岡茂もぎくりとした。彼は父親からの遺産をついで、この会社の大株主になっていた。この会社がつぶれれば、破産とまでは行かないにしても、彼の財産は何割か、ふっとんでしまうことになるのだった。 「畜生《ちくしよう》! これじゃ新車が買えなくなる」 「兄さんたら何よ。いい年をして、自動車の玩具ばっかり夢中《むちゆう》で集めて……せめて、いくらかでも損の埋《う》めあわせに、そのガラクタを精神異常者仲間に売りとばしなさい!」 「そんな、そんな無茶な……この上、命から二番目のこのコレクションを手ばなすんじゃ、自殺するしかないじゃないか」 「まあ、兄さんという人は、ほんとうに精神|年齢《ねんれい》十二|歳《さい》ね」  邦子は、おいおい泣き出してしまったが、そのそばで、吉岡茂は、何かにとりつかれたように、ぶつぶつひとりごとをいっていた。 「待てよ。名案が浮《う》かんだぞ。こんなわけで急に金に困るようになったから、あのスバルを売る——と持ちかけて、連中の反応を見たら、誰が盗人《ぬすびと》か見当がつくかも知れないぞ。そうだ。こんな収集家の面よごしをこのままほっておく手はない。ひとつ探偵《たんてい》をやって見よう」     3  その夜から降り出した雨は翌日の午後まで続き、それが上がってしまうと、今度は気持ちがわるいほどの陽気となった。秋とは思えないほどの暑さで、夜になってもいっこう冷えこまなかった。  この日、吉岡茂は、夕方雨が上がると同時に出かけたきり、夜になっても帰らなかった。そして、その翌朝には、彼は死体となって、|井の頭《いのかしら》線、久我山《くがやま》駅の近くの林の中で発見されたのである。後頭部を鈍器《どんき》でなぐりつけられた上、ナイフか何かで胸を刺《さ》され、のどを切られていたのである。  杉並《すぎなみ》署からの連絡《れんらく》で、加瀬敬介警部と横山部長刑事は、警視庁からすぐ車で現場へ急行した。この日もとんだバカ陽気で、運転している警官もいっぱいに車の窓をあけっぱなしていたが、吹きこむ風も気持ちがよかった。 「ちょっとしたドライブ気分ですな」  横山刑事も、最初はのんきなことをいっていたが、さすがに現場へ到着《とうちやく》すると、ドライブ気分など忘れたような深刻な顔になった。 「ご苦労さまです。警部殿《どの》、さっそくですが現場付近にこんなものが発見されました」  といって、警官がさし出したものは、着古されたごくありふれた型のダスター・コートだった。ところどころに、血が飛び散っているのがすぐに目についた。 「これは返り血をあびたものらしいな。それでわざと捨てていったのだろう。一年ぐらいはそでを通していそうもないが……ネームもマークもはぎとってある……おや、これは?」  加瀬警部は、このコートの左そで、肘《ひじ》の近くにドロのはねがこびりついているのを見て首をひねった。 「昨日《きのう》は午後まで雨が降っていましたから、ドロのはねがついていても、べつにふしぎはないでしょう」  横山|刑事《けいじ》は首をふりふりいった。 「いや、よく見たまえ。ほかの場所にはぜんぜんはねはついていない。ここ、左肘のところにだけ、ドロがついているというのは、ちょっと不自然じゃないかね」 「そういえば、そうですが……」 「不自然といえば、警部殿、もっと不自然なものが、近くから発見されているのです。ハンカチは私のものですが……」  警官のつき出したのは、スバル三六〇の模型だった。 「こりゃなんだ!」  加瀬警部と横山部長刑事は、ほとんど同時に声をあげ、しばらく顔を見あわせていた。  しかし、間もなく加瀬警部は、この奇妙《きみよう》な遺留品が重大な証拠《しようこ》であることを悟《さと》った。  死体の身元が確認され、吉岡邦子が出頭して、この模型|盗難《とうなん》事件のことを陳述《ちんじゆつ》したために、犯人は前夜、吉岡家へ集まった五人のうちの一人だろうということが、容易に推定されたのである。  ここまで来ると、吉岡茂がこの窃盗《せつとう》犯人を見つけ出して、スバルをとりかえし、それを根にもった相手が彼を殺した——という仮説は容易に生まれて来る。その際、犯人も逆上していて、この重大な証拠《しようこ》を現場から持ち去ることを忘れたのか、それとも後で徹底《てつてい》的に調べられるのを恐《おそ》れて、わざと捨てて行ったのか、どちらにせよ、この殺人犯人と模型窃盗の犯人とは同一人と思われた。  この模型よりも直接的な証拠品であるはずのダスター・コートは、かえって役に立ちそうにもなかった。血痕《けつこん》は吉岡茂の返り血だということは証明されたが、既成品《きせいひん》の標準型で着古しでは、五人のうちの誰《だれ》のものか、ちょっと識別できそうにもなかった。そして、この五人とも、体つきはだいたい似かよっていて、特別の大男や小男はいなかったのだ。     4 「浜野常太郎は現場の近く——高井戸《たかいど》よりの方に住んでいます。ですから、地理的には一番あやしいことになりますね」  横山部長|刑事《けいじ》は、加瀬警部に、捜査《そうさ》の結果を報告しはじめた。 「しかし、容疑者は誰《だれ》も自動車|狂《きよう》なのだろう。車を使えば、機動性が出て来るから、距離《きより》的に多少の遠近は問題にならないわけだな」 「それはたしかにそうですが……それから、ラビット組の中崎隆一は、久我山と西荻《にしおぎ》の中間あたりに住んでいますから、これも下北沢《しもきたざわ》へ帰る吉岡茂を送って行くようなふりをして、途中《とちゆう》で殺すのはむずかしくないでしょう。もう一人の収集狂、金子進は目白《めじろ》に住んでいますが、これにしたところで、一度|卒倒《そつとう》させておいて、ポンコツで久我山まではこんで行くのはむずかしくもありますまいからね」 「そのポンコツはどんな車だ?」 「トヨペッサンというのは、ポンコツの中でも上等なほうだそうですが、彼の車ときた日には……」 「トヨペッサン?」 「トヨペットのボディに、ダットサンのエンジンをくっつけたポンコツだというんですがね……これなら素姓《すじよう》がはっきりしていますが、彼の車は何といいましょうか。まあ、ご本人にいわせれば、あらゆる車の精を集め、粋《すい》をぬいた車の中の車だというんですよ」 「それでも動くのかね?」 「止まるたびに、水をバケツに一杯《いつぱい》ずつ、補給する必要があるそうですが、とにかく動くことは動きますよ。エンジンや何かは知りませんが、ボディは国産、箱型で、木炭車当時の遺物じゃないでしょうか」 「おそるべき車だね。被害者《ひがいしや》のコレクションにも、そんな珍品《ちんぴん》はなかったろうな。それで残りの二人のほうは?」 「本物のスバルを持っている田原修治は国分寺《こくぶんじ》に、古物のフォードをのりまわしている倉石義道は赤羽《あかばね》に住んでいます。ただこの二人は収集狂ではありません」 「収集狂でなくても殺人の動機はあるかも知れんが」 「私も念のために当たって見ましたが、田原修治は吉岡家からかなり借金があるようです。土地を売るとき、世話してやって、その金を途中《とちゆう》でふところに入れ、後で借金ということにしてもらったらしいんです。倉石義道のほうは、中学時代から吉岡と同窓で、彼にはたえず劣等《れつとう》コンプレックスを感じていたようです。最近も恋人《こいびと》を吉岡にとられたというのですが、実情は女のほうから逃《に》げ出したらしく、吉岡のほうは相手が倉石の彼女だということは知らなかったようです。ちょっと、殺人の動機としては弱いですかな」 「ほかの三人のマニアのほうは?」 「何しろ、最初から『狂《きよう》』の字がつく人種ですから……コレクションのためなら、どんな卑劣《ひれつ》な行動でもやりかねないんじゃないでしょうか。そして、他人のコレクションを盗《ぬす》んだことがばれて、仲間の爪《つま》はじきになると思ったら、収集狂から殺人狂にかわっても、そんなにふしぎはありますまい」 「なるほどね。ところで、検視の結果、犯行時刻は昨夜の十二時ごろということになったが、そのころの五人のアリバイは?」 「五人のうち、浜野と田原が女房持《にようぼうも》ちですが、田原の細君は胸を悪くして入院中、浜野の細君も、旦那《だんな》の度をこした趣味《しゆみ》に愛想をつかして実家へ帰っています。したがって、五人ともアリバイはありません」 「車を持っている三人が、昨夜出かけた形跡《けいせき》はあるのか?」 「それが、そろいもそろった自動車狂で、金子進はオンボロ車を走らせるのは夜中にかぎるということで、深夜のドライブとしゃれこんだそうですし、倉石義道は寝《ね》つかれないのでかるく二時間ほど流して来たそうですし、田原修治は腕《うで》をあげるため、夜間運転の猛練習《もうれんしゆう》をやっていたというんですよ」 「やれやれ、とんだスピード狂《きよう》時代だな」  加瀬警部も苦笑《にがわら》いするしかなかった。     5  警部は五人をつぎつぎに呼び出して、あらゆる角度から尋問《じんもん》を続けたが、これという収穫《しゆうかく》はなかった。もちろん誰《だれ》も、このスバルの模型を盗《ぬす》んだことは否定したが、この五人の中に火事場ドロボウ、殺人犯人がいることは、まず確実といってよいのだ。  当日、吉岡茂が訪《たず》ねて来たかどうかという質問に対しては、金子進だけが肯定《こうてい》した。それも目撃者《もくげきしや》がいたために、しぶしぶ認めたような感じで、話しあいは友好的なものだったということだった。のこり四人はみんな否定したが、証言が本当かどうかは疑わしかった。  田原修治の借金も三十万で、そのうち二十万は返していた。これも吉岡茂との話しあいの結果、土地の代金の中から友好的に借りたもので、邦子が妙《みよう》にかんぐったような事実はないようだった……。  警部は、机の上にのっているスバルの模型を見ているうちに、ふと妙なことに思いついた。この殺人が、収集狂というような一種の異常心理をめぐっておこったものなら、一度吉岡茂のコレクションを見ておいたほうが、何かの役にたつのではないかと思ったのである。  そのことを横山|刑事《けいじ》に話して見たが、刑事も何の異存はなかった。それから一時間後には、二人は吉岡邦子といっしょに、百三十六台からスバル一台だけなくなった、百三十五台の車を前にして溜息《ためいき》をついていた。 「よくもまあ、これだけ集めたものですなあ。パトロール・カーからこんなのまでそろっている」  横山刑事は溜息をついて、警部に救急車と霊柩車《れいきゆうしや》を指さして見せた。  すべては精巧《せいこう》なものだった。運転席からリア・シートまで、ちゃんとそろっていた。 「兄は、土地を売ったお金をのこらずこんなものにつぎこんでいたんですわ」  邦子が涙声《なみだごえ》でいったとき、加瀬警部はとたんに棒だちになり、コブシをかためて、自分の頭をたたいた。 「こんなことに、こんなかんたんなことに、おれはどうして今まで気がつかなかったんだ……」 「わかりましたか。警部|殿《どの》」  横山刑事も、思わず声をはずませた。 「うん、コレクションを見ないでも、当然わかったはずなんだが……横山君、あの時の天気と、コートと車が、秘密をとく鍵《かぎ》だ。この三つをくらべて見れば、犯人が誰《だれ》かは、すぐにわかるはずだよ」  クレタ島の花嫁《はなよめ》——贋作《がんさく》ヴァン・ダイン——     はしがき  私の大学生時代からの友人、フイロ・ヴァンス君の赫々《かつかく》たる業績については、これまで何度となく私の紹介《しようかい》した文章によって、読者諸君には既《すで》におなじみのことと思う。  私が彼の顧問《こもん》弁護士をしていた数年間は、たまたまヴァンスの親友ジョン・マーカム君がニューヨーク検事局に検事として在職していた期間にあたった。この若いジレッタント、フイロ・ヴァンスは非公式に、マーカムの相談相手となり、その独特の推理を以《も》って、幾《いく》つかの迷宮事件の解決にあたったのも、私がたのまれもしないのに、その事件の詳細《しようさい》な記録を作っておくようになったのも、そうした特殊《とくしゆ》条件に基づくものであったが、私はいまこの機会に、「クレタ島の花嫁《はなよめ》」と名づける一つの事件を諸君に紹介したいと思う。この事件はあの「カナリヤ」「グリーン」「僧正《そうじよう》」その他、六字の題名で始まる一連の殺人事件ほど、複雑|怪奇《かいき》なものではないが、やはりニューヨーク警視庁に於《お》いても、私に関しても、忘れられない一つの事件だったのである。  一九五三年十月十一日  インフェルノにて  S・S・ヴァン・ダイン     1  フイロ・ヴァンスは若い貴族だった。すぐれた稟質《りんしつ》と多くの能力を一身に備えた人物だった。素人《しろうと》ピアニストとしては、巧《たく》みな弾《ひ》き手だし、美学と心理学の研究にかけては、その造詣《ぞうけい》が頗《すこぶ》る深く、その美術品の蒐集《しゆうしゆう》も、ちょっと一方的に傾《かたむ》いているという難点はあったが、個人のものとしてはりっぱなものだった。オックスフォード流の正確な英語を話し、貴族的な容貌《ようぼう》の持ち主だったが、たえずその顔に動く、辛辣《しんらつ》な嘲《あざ》けるような表情が、彼をその友人たちから遠ざける障壁《しようへき》となっていた。しかし、実のところは、彼は決して冷淡《れいたん》な男ではなかった。一般《いつぱん》世俗の事柄《ことがら》には、至って無関心な反応しか示さない彼が、一旦《いつたん》美術上の問題に話がふれてくると、人が違《ちが》ったのではないかと思われるほどの熱情を示すのを、私は何度か経験した。だからこうして、古代エーゲ海文化の中心をなす、クレタ島トロイの遺跡《いせき》から発掘《はつくつ》された、黄金の首飾《くびかざ》りをめぐるこの事件に、彼が異常な興味を感じたというのも、それほど不思議なことではない。  一九——年七月十五日、九時少し前のことだった。マーカムは事件を知らせに、東三十八番街のヴァンスのアパートへ、私たちを訪《たず》ねて来た。  キューリーの知らせで、居間へ行って見ると、マーカムは帽子《ぼうし》をテーブルの上に投げすてたまま、あちこち歩き廻《まわ》っていた。いかにもおちつきのない様子と、私の助力を求めるような視線から、私はまた何か事件が起こったのだな、と直感した。 「ヴァン、お早う」  と彼は機械的に挨拶《あいさつ》した。 「どうしたんだい。こんなに早く、また何か事件が起こったとでもいうのかい」  私はたずねた。しかし、彼の答えは、私の予想していたものと違《ちが》っていた。 「事件といえば事件だが……いや、こうしたつまらない事件で、ヴァンス君を煩《わずら》わすにも及《およ》ぶまいと思うのだが……」  マーカムは、控《ひか》え目な、それでいて曰《いわ》くありげな口のききかたをした。 「何か彼の興味をひきそうな点があるのかい。ご承知だろうが、彼をお昼前に起こすということは僕《ぼく》としてもよほどの決心がいるんでねえ」 「理由はこれだ」  マーカムはポケットから、ハンカチにくるんだ重みのある品物をとり出して、テーブルの上においた。その中から、燦爛《さんらん》たる黄金の光が私の眼《め》を射た。  精巧《せいこう》な、波形と渦巻《うずまき》のすかし彫《ぼ》りのある、うすい黄金の板がいくつもつぎあわされた首飾《くびかざ》り——くわしいことは、私にもよくわからなかったが、この繊細《せんさい》な細工と、しかもそこに見られる素朴《そぼく》な気品は、決して近代人の手に成るものとは思えなかった。 「これは——?」 「ヴァンス君なら、一目で見やぶれるかと思うがね。クレタ島、トロイ市の遺跡《いせき》から発見された首飾り——ギリシャ文化の精粋《せいすい》をあらわす遺品だ」 「それで……」 「昨夜、ニューヨークのある場所で、死体となって発見されたある男のポケットから出て来た品だが」 「待ってくれ。ヴァンス君を起こして見よう」  私は決心を固めて、キューリーをよんだ。この執事《しつじ》は、しばらくためらっていたが、私とマーカムの顔色から、ただならぬ気配を感じとったのか、無言のままうなずいて扉《とびら》の外に消えた。  一、二分たつと、ヴァンスは縫《ぬ》い模様のある美しい絹のキモノにスリッパをつっかけて、部屋《へや》の戸口にあらわれた。  彼はやや怪訝《けげん》そうな眼でマーカムに会釈《えしやく》し、時計にちらと眼をやると、レジーを一本吸いつけて、 「ソロン先生、朝っぱらこんなに早く、僕《ぼく》の寝込《ねこ》みを襲《おそ》うとは、さてはまた新しいミイラが発掘《はつくつ》されたんだね」  といって笑った。 「ミイラじゃないが、物はこれだ」 「これ——?」  初めて、ヴァンスも問題の首飾《くびかざ》りに気がついたらしかった。 「ほほう」  眼を輝《かがや》かして、テーブルの前に坐《すわ》ると、ルーペをとり出して、しばらくのぞきこんでいたが、 「大したものだ。紀元前十四、五世紀の作品、クレタ島ミノスのラビリンスの出土品か」  と大きく溜息《ためいき》をつきながらいった。 「ヴラボー、君の美術|鑑識眼《かんしきがん》には、大いに敬意を表せざるを得ないね」 「そんなことは問題じゃない。豊麗《ほうれい》にして端正《たんせい》、流れるようなこの曲線——古代のギリシャ人はみな、身近に見られる軟体《なんたい》動物から、この曲線美を学びとったものだね。マーカム、これをどうして手に入れた——? クレタ島の発掘《はつくつ》は、ハインリッヒ・シュリーマンの大事業だが彼の発見した美術品はのこらずベルリンとイスタンブールとアテネの博物館に残っているはずだ。もし君が、僕《ぼく》の誕生日《たんじようび》のお祝いに、この首飾《くびかざ》りを贈《おく》ってくれるというなら、僕《ぼく》はこんなに早くたたき起こされた恨《うら》みはすっぱり忘れてやるよ」 「残念ながら僕のじゃない。アム、アンファングズ、ヴール、デア、トート。まずその初めに死はありきだ」 「やっぱりそうか」  唇《くちびる》を歪《ゆが》めてヴァンスは笑った。 「今度は誰《だれ》が殺された——? この貴重な美術品をとろうとして殺人を犯した犯人には、大いに情状|酌量《しやくりよう》の余地がある」 「危なくてうっかり君を陪審官《ばいしんかん》にはたのめないな。殺された……ともはっきりいえないが」 「どうしてなんだ」 「ハドソン河から男の死体が上がったんだ。死後十時間ぐらい、名前も身元もはっきりしないが、どうもギリシャ人くさいところがある。その男のポケットから発見されたのがこの首飾りなんだ」 「東洋の格言に、木に上って魚を捕《とら》えるという言葉があるそうだが、エーゲ海文化の本質を探求するためには、骨を折って、クレタ島の遺跡《いせき》を発掘《はつくつ》するより、ハドソン河の河底をさらって見たほうがいいということになるかね」 「一見他殺の形跡《けいせき》はない。格闘《かくとう》の跡《あと》も暴行の跡もない。温度が高いので、ちょっと腐敗《ふはい》が起こっているが、全然水はのんではいない。水に落ちた時にはもう死んでいたのだ」 「妙《みよう》だねえ」  ヴァンスは物憂《ものう》げな瞳《め》をあげた。 「もし誰《だれ》かが、その男を殺して河にほうりこんだとすれば……これを見逃《みのが》すわけはあるまいが……」 「でも、こういう特殊《とくしゆ》な品物では、盗品《とうひん》から足がつくと思ったのかも知れないな」 「マーカム。君は蒐集家《しゆうしゆうか》というものの特性を知らないね」  ヴァンスは淋《さび》しそうに首をふった。 「僕《ぼく》の知っている美術品の蒐集家と来たら、誰も彼も、職業的な泥坊《どろぼう》を使ってでも人のコレクションをかすめかねない手合いだよ。こういう逸品《いつぴん》を持って来た男があったら、僕は結構盗品と承知で取引するよ。そのかわり写字机《エスクリトプル》の引き出しに鍵《かぎ》をかけて誰も見せやしないがね」 「まことに困った『|法廷の友《アマイカス・キユリエ》』だ」  マーカムは慨歎《がいたん》するようにいった。 「ほかに品物は——? ポケットの中に入っていなかったかい」 「煙草《たばこ》はキャメル、ハンカチに小銭、それに南京豆《ナンキンまめ》の袋《ふくろ》」 「もちろん、マッチは持ってたんだろうな」 「なかったね」 「ふん」  ヴァンスは怪訝《けげん》そうな顔をした。 「結局、大した愛煙家《あいえんか》でもなかったのかね、その男は。死因《しいん》は何だ——?」 「河岸《かし》かどこかに立っていて、心臓|麻痺《まひ》の発作でも起こして、河へ転がり落ちたんじゃないかね」 「マーカム、僕《ぼく》は君の幸運を祈《いの》っているよ。たとえ間違《まちが》った道すじをたどっていても、偶然《ぐうぜん》に目的の場所へ出るということは、人生によくあることだ。人は途中《とちゆう》の道筋を問わない。ただ目的地にたどりつけば、それは人生の成功者だ」  マーカムは首飾《くびかざ》りをポケットに入れて立ち上がった。その眼はヴァンスの言葉に怒《おこ》ったようにも見え、またためらっているようにも見えた。 「まあ、何にせよ感謝するよ。たとえ朝早くとはいいながら、こうして古代美術の精粋《せいすい》に眼を楽しませてもらったことは、何ともお礼のいいようがない。一つ、死人の身元がわかったら知らせてくれないか」 「そうしよう」  マーカムは重々しく答えた。     2  その翌日の朝九時ごろ、マーカムは私のところに電話をかけてよこした。 「お早う、ヴァン、例の水死人の身元が知れたよ」  彼の声はいつもより上ずっていた。 「ああそれはそれは。ヴァンス君もさぞ喜ぶだろう。早速これから起こすけれど、相手は誰《だれ》だ——?」 「それがちょっと妙《みよう》なんだ。つい最近死んだフランク・カルバート、あの素人《しろうと》考古学者のミリオネアー、その夫人の従兄《いとこ》にあたっている、キクロペスという男だ。夫人はクレタ島生まれのギリシャ人、アンゼリカという美人だが」 「どうしてわかった——?」 「新聞の記事を見て、フランクの弟、ヘンリーがやって来たんだ。一月ほど前、兄の邸《やしき》から古代ギリシャの美術品が盗《ぬす》まれた。その時この男もたしかに家に居あわせたというんだが……」 「間違《まちが》いないね」 「むこうから写真を見せた。内々むこうでも怪《あや》しんで、探偵《たんてい》を使って行方《ゆくえ》を探《さが》していたらしい。何しろ、ヴァンス君もいったように、金にはかえられない貴重な美術品だからな」 「分かった。それでどうする」 「カルバート家へ行って見ようと思うんだが、ヴァンス君の都合をきいてくれないか」  ヴァンスは別に機嫌《きげん》も悪くしていなかった。電話に向かって、何度もうなずき、 「ああ行くよ。行くとも」  といって受話器をかけた。 「ヴァン、出かけるよ」 「こんなに早く」 「彼女を所有せんがため、人々は十年の間|戈《ほこ》をとって激《はげ》しい闘《たたか》いを交えたのだ。僕《ぼく》が早起きするぐらいのことは何でもないさ」  イリアードの一句をひいて、ヴァンスは答えた。カルバート邸《てい》を訪《おとず》れる間も、彼は口をとじる間もなく、しゃべり通しだった。 「君もクレタの遺跡発掘《いせきはつくつ》の話は知っているだろう。ホーマーが『イリアード』の中で声高らかに讃《たた》えた黄金の街《まち》、橄欖《かんらん》の都、しかしそれは十九世紀の中ごろまで、詩人の夢《ゆめ》と空想の産物だとしか思われていなかった。ところがハインリッヒ・シュリーマンという、大空想家が、夢を夢だとあきらめないで、この発掘にかかったのだ。ドイツのアンケルスハーゲンの生まれで、少年時代から、故郷の墓地《ぼち》に靴下《くつした》をはいた人間の足が生えるという話をきいて、大きくなったら、この墓《はか》を掘《ほ》って見ようと考えたほどの男だ。長ずれば誰《だれ》でも忘れてしまうはずの少年の夢を、こうしていつまでも忘れなかったということに、僕《ぼく》は絶大の尊敬をいだくね。遂《つい》にトロイは発掘された。エーゲ海文明の中心をなす、クレタ島の文化は遂に人類の眼《め》にふたたびふれる時が来た」  こういう話題になって来ると、ヴァンスの言葉も熱を帯びた。 「このクレタ島の遺跡に、ふたたび発掘をすすめたのが、このカルバートだ。全然新しい角度から、イリアードの詩編とクレタの地形を再検討して、彼はある王妃《おうひ》の墓を発見した。そしてその中から、いくつかの古代美術の逸品《いつぴん》を掘り出して、ニューヨークへ持って帰ったはずだ」 「では、あの首飾《くびかざ》りもそうなのだね」 「そうだろう。そうでもなければ、あれだけの品物が、ニューヨークで見つかるはずがない」 「しかし、ふしぎな話だね。あの首飾りを手にした、少なくとも二人の男が相ついで命を落としているわけだ。女王の呪《のろ》いとでもいうのかねえ」 「クレタの女は恐《おそ》ろしいよ。一つの都市を灰燼《かいじん》と帰した十年の戦役も、クレタの女の微笑《びしよう》から。今度の事件も……」  突然《とつぜん》、ヴァンスはだまりこんでしまった。車がカルバート邸《てい》に着いたのだった。  広い緑の前庭を持った、白い三階建ての堂々たる邸宅《ていたく》だった。カルバートの父はウォール街で辣腕《らつわん》を振《ふ》るった有名な大相場師、この邸宅もその遺産の一つだった。  マーカムは既《すで》に到着《とうちやく》していた。私たちが入って行くと、彼は四十前後の眼の鋭《するど》い白服の男といっしょに出て来て私たちを迎《むか》えた。 「ヘンリー・カルバート君、フイロ・ヴァンス君にヴァン・ダイン君」 「わざわざご来駕《らいが》願って恐縮《きようしゆく》です」  彼はもう私たちのことを聞いているらしかった。大きな手を出して、握手《あくしゆ》をかわすと、すぐに私たちを邸内《ていない》に導いた。  広いホールへ入ったとき、ヴァンスの眼はとたんに、飾《かざ》ってある出土品にむけられた。 「蛇女神《へびによしん》……収穫者《しゆうかくしや》の壺《つぼ》……黄金|拳杯《けんぱい》……」  一つ一つに、鋭《するど》い鑑賞者《かんしようしや》の視線を投げながら、あたりを見まわしていた彼の眼は、突然《とつぜん》階段の上にとまった。 「ヴァン……彼女こそ、彼のクレタ島の発掘《はつくつ》の中で、最も貴重な逸品《いつぴん》だったかも知れないよ」  彼はかすかな声でささやいた。  黒衣の花嫁《はなよめ》、アンゼリカ——たしかに彼女は古代ギリシャの女神たちの血をひく美女に違《ちが》いなかった。雪花大理石そのままの肌理《きめ》、彫刻《ちようこく》的な均勢《きんせい》のとれた横顔、そして多島海の波の色を思わせる双眸《そうぼう》に、かすかな憂《うれ》いがただよっていた。音もたてずに、階段をおりて来ると、彼女は私たちにしなやかな手をさしのべ、正確な英語でいった。 「ようこそおいで下さいました。こんないやな機会でお目にかかれたのでなかったら、もっと嬉《うれ》しかったのですが……」  装飾《そうしよく》一つない、黒い喪服《もふく》が、かえって彼女の美貌《びぼう》をひきたてていた。客間に坐《すわ》って、私たちは話をまじえた。 「姉さん、たしかにあの時|盗《ぬす》まれた品物に違いないんですけれど、どうします——?」 「お捨てなさい。捨てるのがいやなら、どこかの博物館へでも寄附《きふ》しましょう。あんな品、もう家へ入れるのはまっぴらです」 「黄金の首飾《くびかざ》りですね。どうして、そんなことをおっしゃるんです」  ヴァンスが興味ありげにたずねた。 「そうじゃございませんか。わたくしはアテネのある学校で英文学の教師をしておりました。ちょうど休暇《きゆうか》で、クレタ島の実家へ帰っておりましたとき、探検に参りましたフランクと知り合いになりまして、結婚《けつこん》するようになったのでございますが、ちょうどフランクはパプルスという小さな村の附近《ふきん》を掘《ほ》り始めておりました。たしかに身分の高い女の人、多分|王妃《おうひ》でございましょうか。その墓《はか》から、この黄金の首飾《くびかざ》りや、そのほかの美術品をいくつも発見いたしましたが、使っておりました人夫は二人病気にかかって死にましたし、一人は穴に落ちて頭を打ち、大怪我《おおけが》をしてしまいました。そしてまた、フランクは最後にこの首飾りを前にして……」 「失礼ですが、ご主人がおなくなりになったのは」  鋭《するど》くヴァンスが言葉をはさんだ。 「心臓|麻痺《まひ》でございます。書斎《しよさい》で、鍵《かぎ》のかかっている部屋《へや》で」 「でも……」 「伝声管《デイクタフオン》が開けっ放しになっておりました。パプルス——と、それが最後の一言でございました。それからドタリと倒《たお》れる音、あとは呼びかけても返事がございません。かけつけて見ると、フランクが死んでおります。そのどさくさにまぎれて、あの首飾りが盗《ぬす》まれたのです。わたくしは、もうそれどころではございませんでしたから……」 「では、奥《おく》さんのお従兄《いとこ》さんのキクロペス氏も、ちょうどその場に居あわせたわけですね」 「はい、フランクの探検に、いっしょについて参りました写真技師のノイラートさんが、その前にいらっしゃって、お帰りになったときには、フランクはあの首飾《くびかざ》りを前において、眺《なが》めておりました。それから間なく、キクロペスがやって参りました。よく小遣《こづかい》がなくなると、私のところへ借りに来るんですの」 「あなたのお従兄さんというのは、よくよく金に不自由していらっしゃると見えますね」 「ええ、親類中の困り者でございました。アメリカへ渡《わた》ったときいて、みんな安心していたのでございますけれど……」 「それで、鍵《かぎ》をこわして中へおし入ったというわけですね」 「そうなんです。書斎《しよさい》は二階、フランクは百合《ゆり》の花瓶《かびん》を倒《たお》して床《ゆか》に倒れておりました。心臓|麻痺《まひ》とそういう、診察《しんさつ》でございました……」 「私はちょうどその時、シカゴへ旅行していたんです。電報を見て、あわててひっかえして来たんですが……」  ヘンリーが、そばから言葉をそえた。 「だから、ああした不吉な黄金の首飾《くびかざ》りなど、二度と見たくはないというのです」 「わかりました。奥《おく》さんのお気持ちはよくわかります」  ヴァンスは同情するようにいった。 「人間というものは、その故郷の環境《かんきよう》によって一生支配されるものです。奥さんもご存じでしょう。ハインリッヒ・シュリーマン、彼がドイツでも一番伝説に富んでいるといわれるアンケルスハーゲンの村、そこに生まれて幼いころから、黄金の皿《さら》やゆりかごを掘《ほ》り出すという夢《ゆめ》を見つづけていなかったら、クレタ島文化の発見はどれだけおくれたか知れませんね」  アンゼリカもヴァンスも、いやな話題はさけたかったのか話は転じて、ヒッサリークの丘《おか》、プーレウテリオンの泉など三千年の昔《むかし》に移った。幼かりしの日の夢を追う、アンゼリカの瞳《ひとみ》から、ようやく愁《うれ》いが去ったようだった。  最後にヴァンスは一言たずねた。 「キクロペス氏は煙草《たばこ》はお吸いでしたか」 「とても、まるで煙突《えんとつ》のように、それも安煙草ばっかしでしたの」 「そうでしたか」  ヴァンスは立ち上がって暇《いとま》を告げた。 「ああ、結構な半日だったよ。わかりもしないギリシャ語まじりの美術史の講義をああして、立てつづけに聞かされたんじゃあね」  邸《やしき》を出て、三人きりになるとすぐ、マーカムは皮肉をならべたてた。 「マーカム、君はまだ気がつかなかったのかね」  ヴァンスは鋭《するど》く反撃《はんげき》した。 「これは事件だ。君たちの求めてやまない人生の目的なんだよ」 「事件とは……」 「分からないかね。あのあわれなる異国人《エトランゼ》キクロペス氏も、この百万長者《ミリオネア》カルバート氏も、ある同一人物の手にかかって、命をうばわれたのだということにね」     3  その日の夕方、メトロポリタンから、私たちが帰って来ると、マーカムが興奮した顔色を見せて待ちかまえていた。 「ヴァンス、やっぱり君のいった通りだった。キクロペスの死体からは青酸中毒の痕跡《こんせき》が検出された。でもいったい……」 「やっぱりね。もし、そうでもなかったとしたら、僕《ぼく》もパプルス王妃《おうひ》なる女性の三千年の呪《のろ》いという、超《ちよう》自然的な怪談《かいだん》の虜《とりこ》となってしまうところだった。で、カルバートの方はどうだった」 「マックスウェルというドイツ人の医者だがね。こいつが大変な代物《しろもの》なんだ。藪《やぶ》で、しかも降霊術《こうれいじゆつ》だの何だの、神がかりみたいなご託宣《たくせん》ばかり信じていると来ている。どうして、カルバートがあんな医者を信用して主治医にしていたのか、僕には分からん。まあ、カルバートの方も、いくらか心臓が弱かったのは事実だが、あの藪ったら、クレタ島のパプルス遺跡《いせき》を探《さぐ》ったのが、そもそもいけなかったのだ。星廻《ほしまわ》りがたたって、心臓へ来たとぬかすんだ」 「そう怒《おこ》るなよ。百合《ゆり》の匂《にお》いは強いから、青酸の臭気《しゆうき》は消されたかも知れん」 「百合——?」  マーカムはピクリと眼《め》をあげた。 「じゃあ、君は夫人がわざと……」 「夫人が共犯者だったか、それともこの計画を薄々《うすうす》ながらも知っていたか、或《あるい》はまた犯人が偶然《ぐうぜん》を利用しただけか僕は知らない。まあ二か月前の事件では、確実な証拠《しようこ》も上がりはしないだろう」 「今となっては——ね」  マーカムも溜息《ためいき》をついていた。 「それで、キクロペスの住居は分かったか」 「夫人もヘンリーも知らないといっていたが、ボウエリー三八番地の肉屋の二階、これはヒーズ部長の報告だが……彼はいまそっちへ行っている。行くか」 「行って見よう」  ヴァンスはすぐに腰《こし》をあげた。  河岸《かし》に近いニューヨークの下町、この塵芥《じんかい》と浮浪者《ふろうしや》と夜の女とそして犯罪者の巣窟《そうくつ》のようなボウエリー街へ、貴族主義者のヴァンスが訪《おとず》れて行くということは、めったにないことだった。これが、古代ギリシャの芸術に糸を発している事件でもなければ、とても考えられることでもなかった。  くすんだ汚《よご》れた建物の変に歪《ゆが》んだ横の階段を上がると、狭《せま》い通路の両側の扉《とびら》から、物見高い人々の眼が私たちを見つめていた。マーカムがじろりと見まわすと、いっせいにその扉を閉じてしまった。  小さな部屋《へや》は汚れていた。ろくに掃除《そうじ》もしないのか、埃《ほこり》の臭《にお》いが鼻をついた。かがみこんで寝台《しんだい》の下を調べていた、巡査《じゆんさ》部長のアーネスト・ヒーズがふりむいて、いつもの微笑《びしよう》を浮《う》かべた。 「ヴァンスさん、ご到着《とうちやく》ですな。お待ちしていたところですよ。でもあなたが、こうした下々《しもじも》の世界へおいでになるかどうか、実は賭《か》けてたところでしてね」  その言葉と、凄味《すごみ》のある笑顔から察すると、どうやら彼は勝馬に賭けていたようだった。 「何か手がかりはありましたか」 「ずいぶん、いかがわしい商売の男だったらしいですな。いったい何で食っているのか、ここの連中だってよく知っていないんです。殺される二、三日前、凄《すご》い別嬪《べつぴん》がやって来たようですが……」  マーカムは何かたずねたそうな眼で、ヴァンスのほうを見た。ヴァンスは悲しげに首をふった。 「やめたまえ。むだなことだ。チラリと見たばかりの女の顔を、そんなに覚えておられる連中じゃないさ」 「でも、こんな紙片が見つかりました」  ヒーズのさし出した紙片には、 「30,000.十四日九時、西|波止場《はとば》A五六倉庫前」  と書いてあった。 「外国人らしい書体だ。十四日九時——といえば凶行《きようこう》推定時刻とほぼ一致《いつち》するが」  マーカムが横からのぞきこんでいった。 「だが、最初の数字はいったい何だ——?」 「三万ドルじゃないのかね。あの黄金の首飾《くびかざ》りの値段だ。少し眼の肥《こ》えた蒐集家《しゆうしゆうか》なら、このぐらいの金はぽんとほうり出すだろう。美術的価値、歴史的価値、その両方をあわせて考えたら何でもない金額だ。しかし、このあわれな男には、結構一財産だったろう」 「僕《ぼく》はこんなことを考えているんだがね」  マーカムはつづけた。 「ある女がここにいたとする。夫殺しをした女だ。その秘密を、何かの拍子《ひようし》にこの男が握《にぎ》ったとする。口止料の三万ドルは安いものだ。少なくとも、首飾《くびかざ》りの値段と見るよりも合理的だ」 「やめたまえ」  ヴァンスは大きく首をふった。 「無理だね。そうした考えは……もし、そうした動機からの殺人なら、なぜこうした特長のある手がかりをそのままにした。すぐに、関係のわかる品物を……」 「じゃあ、やっぱり取引だというのかね」 「そうだとも。この男は誰《だれ》かに、この首飾りを売りわたすつもりで、河岸《かし》へ出むいたのさ。そこで犯人のために倒《たお》されて、取引を果たせなくなったというわけだ」 「では何だって、犯人はこの首飾りをそのままにしたんだ。そこへ出かけることまで知っている犯人なら、河へ死体を投げこむにしても、一応ポケットぐらいは探《さぐ》って見ようじゃないか」 「パプルスの女神は、首飾りなどには眼もくれなかったかも知れないね」 「パプルスの女神——?」 「そうだ。僕《ぼく》はこの灰皿《はいざら》の残骸《ざんがい》から、この男の一日の喫煙量《きつえんりよう》をいま計算しようとしていたところさ」  ヴァンスは、金口のレジーの煙《けむり》を吐《は》き出しながらいうのだった。     4  その翌日の夜、ヴァンスは珍《めずら》しく私を映画に誘《さそ》った。私が当惑《とうわく》していると、 「映画は映画でも、ラブ・ロマンスや西部劇やジャングル物じゃない。まじめな作品だ。考古学の記録映画だ」  と私を説《と》き伏《ふ》せるようにいった。 「まあ御免《ごめん》を蒙《こうむ》りたいね」 「では後悔《こうかい》しても知らないよ。その映画の中に、今度の事件の謎《なぞ》を解く秘密の鍵《かぎ》が発見されたとしても」 「出来るのかい」 「出来るはずだ。なくなったカルバートのクレタ島の記録映画だ。僕の推理に間違《まちが》いがなければ、この映画の中に、事件の鍵はひそんでいるはずだ」 「行く!」  私は叫《さけ》んだ。こういわれては、後へ引けるわけはなかった。  カルバート邸《てい》には、もうマーカムとヒーズが到着《とうちやく》していた。 「僕《ぼく》の友人で、ハーバートを出た、美術史|専攻《せんこう》のアーネスト君」  マーカムはまじめくさって、私たちに紹介《しようかい》した。苦虫《にがむし》を噛《か》みつぶしたような顔で頭を下げた、この巡査《じゆんさ》部長の名優ぶりを見て、私は今夜の芝居《しばい》の演出は、ヴァンスとマーカムの二人の間では、十分に相談が出来ているなと感じた。  アンゼリカ、ヘンリーの二人のほかに二人の人物が来あわせていた。三十四、五のやせた青白い青年と、五十五、六のでっぷり肥《ふと》った赤ら顔の紳士《しんし》、写真技師のノイラートと医師のマックスウェルだった。  贅《ぜい》をつくした晩餐《ばんさん》が出された。デザートコースに入ったとき、ヘンリーが立ち上がっていい出した。 「ここにおいでの皆《みな》さんは、ほんとうの内輪のお方ばかりですから、この際にご披露《ひろう》しておいた方がよろしいかと思います。今度、アンゼリカと私は婚約《こんやく》いたしました。もちろん兄が死んで、まだ間もありませんので、ほんの非公式のものですが、そのつもりでご承知願います」  私が、いやヴァンス一人をのぞいては、その場に居あわせた人々が、その時は顔色をかえていた。  ヘンリーの言葉も、またその言葉に頬《ほお》をそめてうつむくどころか、きっと眼をあげて私たちを見まわしたアンゼリカの美しい顔も、私には不敵な挑戦《ちようせん》のように思われた。  兄と夫、故フランク・カルバートが世を去って二月、その莫大《ばくだい》な遺産を相続した二人が無頼《ぶらい》の従兄《いとこ》キクロペスの怪死《かいし》の直後に、こうして婚約《こんやく》を発表した——そこには何か、かくされた秘密がなければならぬはずだった。 「|お目出とう《グラチユレイシヨン》。お似合のご夫婦だと思っていました。あなたのような美人をいつまでもおひとりでおくのはもったいないことだと考えていたんです」  ヴァンスが真っ先に祝辞を述べ、つづいてマーカムが頑丈《がんじよう》な肩《かた》をちょっと震《ふる》わせながら、手をさしのべた。 「アンゼリカ、お目出とう」  若いノイラートの言葉には、何となく悲痛な響《ひび》きがこもっていたし、 「お兄さまも定めてあの世でお喜びでしょうな」  というマックスウェルの言葉は痛烈《つうれつ》な皮肉のように聞こえた。その場の空気はすっかり白けきっていた。 「どうです。例の映画の方は」  ヴァンスが催促《さいそく》したので、やっと私はそのことを思い出した。だが、この画面に現れるはずのフランク・カルバートが、ハムレットもどきに、 「葬式《そうしき》に用いた焼肉を、冷えたまま婚礼《こんれい》の食卓へ持ち出すつもりか」  と叫《さけ》び出しそうな気がした。  広い客間の方々に、私たちは腰《こし》をおろし、ノイラート技師の写し出す、十六ミリの画面を見つめた。  思ったより、芸術的なフィルムだった。  飛行機からでも撮影《さつえい》したのだろう。茫洋《ぼうよう》たる青海原《あおうなばら》、眼下に停止しているような汽船、進むのか退くのかわからぬ幾《いく》つかの漁船をとびこえて、キャメラは一つの島を大きく画面に写し出した。 「クレタ島……」  キャメラはやがて地上に移った。クノッソス・ファイストス、マリアの宮殿《きゆうでん》、ハギア・トリアダの離宮《りきゆう》、有名なラビリンスなど.三千年以前の王者の栄華《えいが》の夢《ゆめ》の跡《あと》を、キャメラは快適なリズムとともに追うのだった。  その王宮の一室に、崩《くず》れかかった円柱のかげに、一人の白衣の婦人が立っていた。古代ギリシャ人独特の、ゆるやかな寛衣《かんい》をつけたその姿は、この世のものとも思われぬほど美しかった。 「アンゼリカ!」  誰《だれ》かが叫《さけ》んだ。まことに気高く、憂《うれ》いも知らぬ娘《むすめ》のころのその姿は、女神のように美しかった。  白いヘルメットをかぶった、故人フランク・カルバートの姿もやがて、画面の中にあらわれて来た。次第次第にパプルスの丘《おか》、そこをめぐる発掘《はつくつ》の状況《じようきよう》、そして数多い出土品が画面に描《えが》き出されて行ったが、何よりも私の印象に残ったのは、その間に点綴《てんてつ》されて行く、アンゼリカの彫刻《ちようこく》的な美貌《びぼう》と、端正《たんせい》な容姿だった。  甲板《かんぱん》の上に立ち、波の彼方《かなた》を見つめるアンゼリカの半身から、キャメラが横にまわって、多島海の碧波《へきは》、その彼方にかすむクレタの島、船の後を、尾《お》をひいて追う白い水泡《みなわ》——そこでこの記録映画は終わっていた。  電燈《でんとう》がついて明るくなると、私はヴァンスの横顔を見つめた。この映画から、彼は何を発見したというのだ。この二つの殺人事件と関係のある何を読みとったというのだ。  彼の眼は、するどい光に輝《かがや》いていた。 「皆《みな》さん、カクテルでもめし上がる——?」  立って行こうとした、アンゼリカを、彼はひきとめた。 「奥《おく》さん、ちょっとお待ちなさい。大変結構な、芸術的な香《かお》りの高い映画でしたが、ノイラートさん、これは全部君が作ったものかしら」 「撮影《さつえい》も、編集も私がしました。私はあの旅行には、最初から最後までつききりでしたから」 「失礼だが、このフィルムは君が完成した時と同じ状態だった——? どこか、君が知らない中にカットされたような場面はなかったかしら」 「ありません。この映画は私の子供のようなものです。子供のちょっとした体の異常でも母親にはよくわかるものです」 「そうだろうね」  ヴァンスは二、三度うなずいて、今度はマックスウェルの方にむかっていった。 「先生、あなたはパプルスの呪《のろ》いということを信用なさいますか」 「信用しないこともないね。ヴァンス君、この天地の間には様々な異変があって、御身《おんみ》の所謂《いわゆる》哲学や科学の夢想《むそう》だに出来ないことが多いのだ」 「先生が個人として、シェイクスピアを愛読されようが、心霊学《しんれいがく》に興味をお持ちになろうが、この国の法律では、誰《だれ》も干渉《かんしよう》は出来ませんが、しかしそういう信念を、ご自分の職業に適用されたとしたら、それは一種の犯罪ですな。パプルスの呪いの一端《いつたん》は解明されました。キクロペス氏がなくなられたのは青酸中毒、故フランク・カルバート氏の死因も、そうではないかと思われる節があるのです」 「君!」  マックスウェルはいきりたった。 「たしかな証拠《しようこ》があって、それをいわれるのか。それは神聖なる職業に対する侮辱《ぶじよく》ですぞ。死者の霊《れい》に対する冒涜《ぼうとく》だけではなく、私に対しても名誉毀損《めいよきそん》が成立する」 「僕《ぼく》はただ事実をありのまま申しあげているだけです。百合《ゆり》の匂《にお》いで、青酸の臭気《しゆうき》は消された……先生がお分かりにならなかったとしても、まあ無理もないことでしょうね」 「ヴァンスさん。でも、あの部屋《へや》には、鍵《かぎ》がかかっていましたわ。それでどうしても開かなかったし、わたくしたち、扉《とびら》をこわして入ったんですもの。それでどうして、フランクが殺されたとおっしゃるの……どうしてですの」 「僕はそのわけを知ってるんです」 「うかがいましょう。そのわけを!」 「僕はこれでも、ちょっとした美術|蒐集《しゆうしゆう》家《か》だと世間から認められているんで、時々そういう話を持ちこんで来る人間があります。公式ルートからの買い入れなら、ここにいるヴァン君にたのんでいますが、非公式な——はっきりいうと、出所の疑わしいような品物は、仕方がないので、直接その交渉《こうしよう》にあたることにしていますが、つい最近、古代クレタ島の黄金の首飾《くびかざ》りを買わないかと話を持ちこんで来た女があったんです」  ヴァンスは、驚《おどろ》くべき物語を口にしはじめた。私さえ知っておらない秘密だった。 「値段はわずか三万ドル、ほかにその女の手数料が五千ドル——至極格安の金額だった。その女の名前はここではいえないが、まずその品物の真偽《しんぎ》の見分けでは、絶対に間違《まちが》いのない女なんだ。僕《ぼく》は一応、現品を下見した上で、小切手を持って相手の指定の場所へ出かけた。西|波止場《はとば》A五六倉庫の前、十四日の九時ちょっと過ぎに——」 「ああ」  マーカムが呻《うめ》いた。 「相手は、河岸《かし》の縁《ふち》に立っていた。あたりには人影《ひとかげ》もなかった。僕が近づいて行こうとしたとき、彼は煙草《たばこ》を口にくわえて、マッチで火をつけるところだった。かすかな焔《ほのお》が、おびえたようなその顔を、青白く照らし出したかと思うと、彼は一声、パプルスと叫《さけ》んで、河の中へ転がり落ちた。暗いハドソン河の波の上……僕がかけつけた時にはもう、男の姿は見えなかった……」 「ああ!」  ふたたび、マーカムがひくく呻いた。 「君はなぜ、そのことを僕に今までだまっていた——?」 「この男の死因が心臓|麻痺《まひ》だとしたら、何も地方検事|殿《どの》に今更《いまさら》出馬を願うことはない。でも、四方が見通し、しかもその手のとどくところには、誰《だれ》一人いない場所で死んだ男が他殺なら、水へ落ちるまでに死に切っていたというのなら、これはカルバート氏の死んだ時の事情とふしぎなまでに一致《いつち》する」  誰も身動き一つしなかった。私は奇妙《きみよう》な悪感に襲《おそ》われた。三千年前のクレタの女性、パプルス王妃《おうひ》の霊魂《れいこん》が音もなく、この宏壮《こうそう》な館《やかた》の中をさまよっているような幻《まぼろし》が、たえず眼の前にちらつくのだった。 「僕《ぼく》は現場から、一つの品物を持って帰った。どこにもありふれた品物だが……」  突然《とつぜん》、ヴァンスはアンゼリカの方にむかってたずねた。 「奥《おく》さん、失礼ですが、キクロペス氏は、手癖《てぐせ》がわるくなかったですか。つまらない、これはと思う品物を、ちょいちょい、お宅から持って帰るくせはありませんでしたか」 「ええ、つまらないものを、灰皿《はいざら》だとか、スプーンだとか、そんなものを」  アンゼリカはうなずいた。 「それなんだ。そのくせが彼を最後に破滅《はめつ》させた。彼は黄金の首飾《くびかざ》りといっしょに、何気なくパプルスの呪符《じゆふ》を持って帰った。いずれは自分に死をもたらす、危険な品物とも知らずに……」  私は喉《のど》がかわいていた。ヴァンスの圧迫《あつぱく》するような、それでじらすような態度には、もうがまん出来なくなっていた。しかも、ヴァンスはここで話を止《や》めて、レジーに火をつけた。  ヘンリーが、ポケットから、フィリップ・モリスの箱《はこ》を、ひき出した。テーブルの上のマッチをとりあげ、火をつけようとした。  突然《とつぜん》、ヴァンスの横なぐりが、彼の左頬《ほお》に爆発《ばくはつ》した。煙草《たばこ》は一瞬《いつしゆん》、彼の口からはなれて飛んだ。 「何をする!」  ヘンリーは頬をおさえて立ち上がった。 「パプルス!」  ヴァンスの顔にも、恐怖《きようふ》の色が満ちていた。 「これだ。パプルスの呪符《じゆふ》というのは——本当のところはパプルスではない。パープル、つまり紫《むらさき》という言葉をきき違《ちが》えたのだが……」 「紫——?」 「そうだ。マッチの紫色の焔《ほのお》——それが二人の人間の生命をうばう凶器《きようき》だった。軸木《じくぎ》に塗《ぬ》った薬品の中に、揮発して猛毒《もうどく》シアンガスを発生する青化水銀のような薬品がまぜてあったのだ。ヒーズ君、この男を逮捕《たいほ》したまえ」  ヴァンスは鋭《するど》く一人の男の胸元を指さした。写真技師ノイラートは、青白い顔を、一層青ざめさせて、ひきつるような泣き笑いを浮《うか》べていた。     5 「君はあの映画を見てどう思った——? 気がついたか、どうか知れないけれど、僕《ぼく》にはあの映画全体に、恋《こい》を失った男の悲しさが終始ただよっていたような気がした。かくせぬものだ。遺跡《いせき》や、古美術のカットとなると、妙《みよう》に平板な、常套《じようとう》手段しか使えぬ彼が、一旦《いつたん》アンゼリカのあらわれる場面となると、ふしぎなほどの腕《うで》を見せる。何かの感情が心にうごいていなければ、説明出来ることではなかった」  ヴァンスの言葉には、私もうなずかざるを得なかった。 「心にひそめた恋情《れんじよう》が、いつか爆発《ばくはつ》する時が来たとしても決してふしぎはないね。彼は写真の技師だった。化学薬品の入手ぐらいは容易なことだった。しかし猛毒《もうどく》青化物を、食料や飲物の中に入れるということは、危険だったし、困難だった。確実に、ほとんど跡《あと》もとどめずに、相手を倒《たお》すには、ある量以上の青化水素を呼吸させるにかぎる。しかし、それは言いやすくして行いがたいことだ。彼はマッチの軸木《じくぎ》を細工し、書斎《しよさい》の机の上におき忘れたようにして部屋《へや》を去ったのさ。万一、事が起こっても、マッチの箱などのようなものは、まず見のがされると思ってね」 「それを持って行かれるとも知らずにね」 「そうだ。どうして二か月ほどした後で、あの男がしかもああした場所で、同じマッチを使い出したか僕《ぼく》は知らない。空気中では、青化物は自然に分解してしまうし……或《あるい》は、あの男の仕事に気がついた犯人が、新しいマッチを渡《わた》したのか」 「…………」 「少なくとも、キクロペスのような愛煙家《あいえんか》だったら、煙草《たばこ》といっしょにマッチかライターは、たえず肌身《はだみ》につけていなくっちゃいけないはずだ。それが見あたらないときいたとき、僕はまず、この事件の異常な性格を感じたね。実際には、火をつけようとした瞬間《しゆんかん》、青化水素を吸いこんで、河に転落したのだから、マッチもどこかへ落ちたのだろうが」 「でも彼は、何だって、あんな危険な品をたえず持ち歩いていたんだろう。万一の時には自殺でもするつもりだったんだろうか」 「そうじゃあるまい。あの二人の婚約《こんやく》の話を彼はうすうす知っていたのかも知れん。二人まで人の命をとった彼としては、もう破れかぶれの心境にもなっていたろう。相手が使うか使わないかはわからないが——という捨鉢《すてばち》な賭《か》けでもするつもりで、あのマッチの箱をとり出して、ヘンリーの前においておいたんじゃないか。僕があの時、彼の横面をなぐりつけなかったら、またこのクレタ島の美女のため、第三の犠牲者《ぎせいしや》が出るところだった。ノイラートが、マッチの箱をポケットからとり出して、自分では煙草《たばこ》も吸わずに、テーブルの上においた時から、僕は一秒も目をはなさなかったが……」 「分かった。いつもながらの君の明察にはただただ敬意を表するのみだ」  そういったものの、私の心の中には、まだ納得出来ない感情が澱《おり》のようにくすぶっていた。 「僕《ぼく》はもう君には何の役にも立たない人間かと思うと、そろそろ……」 「何だ、君は、あの取引の話のことを気にしているのか。あれは僕の創作だよ。キクロペスの部屋《へや》から発見された紙片から思いついた作り話だ。もちろんあの首飾《くびかざ》りを三万ドルで買おうとする好事家《こうずか》もいたろう。その仲介《ちゆうかい》の労をとった女もいたろう。しかし僕とは何のかかわりもない話だ。僕はただ、あの話であの男がどんな反応を示すか、またほかの人々がどんな顔色を見せるか、それをたしかめようとしただけだ」  ヴァンスは、暖炉《だんろ》の上のクレオビスの像を見つめ、吐息《といき》とともにいうのだった。 「ヴァン、歴史はたえずくり返すのさ。一人のクレタの女のために、三千年の昔《むかし》十年の戦がつづき、また今日では三人の男が命を失った。ホーマーの詩篇《しへん》に盛《も》られた詩人の夢《ゆめ》も夢ではない現実だと思いこんだシュリーマンは、この文化の遺跡《いせき》を地底から掘《ほ》り出した。僕の空想力だって、そうそう無毛の曠野《こうや》ではないつもりだよ」  第三の解答  なにか身にしみるような、冷たさを持つ朝霧《あさぎり》が、今朝もまたこの海抜《かいばつ》二千尺の北国の山の温泉場を包んでいた。このごろではまだ八月の末というのに、秋が忍《しの》び足でにじり寄って来るのを、私は全身からよく感じることが出来た。今日も幾人《いくにん》かの人々がここを去るだろう。明日《あす》も明後日《あさつて》も、馬車は家路に急ぐ湯治客《とうじきやく》を満載《まんさい》して、曲がりくねった山間の道を走り続けるだろう。いつかは私もここを去らねばならない。そしてこの温泉場はふたたび丈余《じようよ》の雪の中に忘れ去られるのだろう。  強い朝風が少しずつ霧を吹《ふ》き飛《と》ばして行った。ちぎられて谷間へ流れて行った霧は森の中に渦巻《うずま》き、山蔭《やまかげ》に昨年から溶けきれずに横たわっている、残雪の上を這《は》い廻《まわ》って、どこへともなく姿を消して行った。  その霧の合間を縫《ぬ》うように、私の部屋《へや》の窓の下を、鳥打帽子《とりうちぼうし》をかぶって釣竿《つりざお》を肩《かた》にした、中老の紳士《しんし》がさっと横切って、はるか彼方《かなた》の森の中へ消えて行った。  その森の彼方《かなた》の山の斜面《しやめん》には、深い岩の割れ目から、沸騰《ふつとう》した硫黄《いおう》と、高熱の水蒸気のふき出している、いわゆる地獄《じごく》があり、さらに歩みを進めれば、車百合《くるまゆり》、白根菱《しらねびし》、黄花|石楠花《しやくなげ》、岩桔梗《いわききよう》などの咲《さ》き誇《ほこ》っているお花畑もあるのだが、彼の目指しているのはそこまで行く途中《とちゆう》の、小さな湖水のほとりだったのである。  そこでは大きな姫鱒《ひめます》がよく釣《つ》れた。私は彼と一緒《いつしよ》に、一昨日《おととい》の夜も、彼の獲物《えもの》をフライにして満喫《まんきつ》したのだった。  彼の名は倉持|亨《とおる》といった。鬼《おに》検事といわれてその在職中、数多くの犯罪者たちを震《ふる》え上がらせた検察官の、今は法律も犯罪も忘れ去った、一人の裸《はだか》の人間の姿であった。  このような農村人の多い田舎《いなか》の温泉場では、知識階級の人間は、とかく置き去りにされたような孤独《こどく》を感じる。そして不思議なほどお互《たが》いに求めあうものなのだ。私たちもわずか四、五日の間に、普通《ふつう》では考えられないほど、親しくなっていた。その絶好の釣《つ》り場《ば》を発見したのは彼だったが、私には釣りは何の興味もなかった。  しかし私の目的には、その湖水のほとりは絶好の場所だったので、私は霧《きり》の晴れ上がるのを待って、森の間を縫《ぬ》って歩いて行った。  楓《かえで》の一枝《ひとえだ》だけがどうしたのか、時節|外《はず》れの紅葉を見せて、緑一色に彩《いろど》られたこの森の中に、不思議な淋《さび》しい華《はな》やかさを与《あた》えていた。それ以外赤い色といっては、私の携《たずさ》えている一冊の洋書の、表紙の真紅《しんく》のクロースだけだった。  私の足音は静かに森の奥《おく》へと吸《す》い込まれて行き、それにこたえるように、はるか彼方《かなた》からかすかな人声が、低くこだまして伝わって来た。そして猟銃《りようじゆう》の響《ひび》きが一発——それきり周囲は元の静寂《せいじやく》に帰った。晴れ上がった青空には、巨鷲《おおわし》が一羽、翼《つばさ》をひろげて悠々《ゆうゆう》と大きな輪を描《えが》いていた。  私は静かに湖水のまわりをまわって、彼の方へと近づいて行った。足音に驚《おどろ》いた小さな蛙《かえる》が、あわてて水の中へしぶきを上げ、彼は時ならぬ人の気配に驚いたように顔を上げた。 「ああ、あなたでしたか、まあお坐《すわ》りなさい」  彼は下に敷《し》いていたレインコートを半分、私にゆずってくれた。私は静かに腰《こし》をおろして、釣《つ》り竿《ざお》の先端《せんたん》を見つめている彼の顔を眺《なが》めたのだった。鷲《わし》のように高い鼻が、きれいに後ろへ撫《な》でつけた銀髪《ぎんぱつ》と調和して、彼の容貌《ようぼう》に不思議な威厳《いげん》を添《そ》えている。そしてその澄《す》み切った黒く光る両眼には、正義に関する限り、いかなる人間でも呵責《かしやく》しない鋭《するど》さが満ちているのだった。  その引《ひ》き締《しま》った唇《くちびる》は、たとえ自分自身に対しても、誤った判断で行動するのを許さないという、強い自信が籠《こ》められているのかも知れない。 「いかがです。釣《つ》れますか」 「いや、今日はどうしたものか、さっぱりだめです。あなたは釣りはお嫌《きら》いのようですね」 「え、あまりまだるっこいものですから」 「いや、無理もありません。あなたのような年配では、恋愛《れんあい》や名声や財産や、この人生にまだまだ追求するものがおありですものね。だが私のような年配になりますと、人生の前途《ぜんと》というものは殆《ほと》んど感じられません。私はこうして釣《つ》り糸《いと》を垂《た》れたり、温泉場の炭火に手をかざしたりしながら、今までの自分の生活を振《ふ》りかえって見るのです。  あの時こうすればよかったとか、ああしていたならばとか、愚痴《ぐち》が出るようになっては、人生ももう終わりですね。私もいま一度人生を繰り返すことが出来たら、検事などという職業は、選ばなかったに違《ちが》いありません」  一陣《いちじん》の微風《びふう》が、静かな湖水の上に、かすかな漣《さざなみ》を立てて通り過ぎ、彼の声もそれと共に、私たちの外《ほか》には人一人いない、この湖水のほとりの静かな空気を震《ふる》わして流れて行く。 「でもあなた方の職業は、国家や社会のためには、どうしてもなくてはならないものではありませんか。良心の命ずるところに従って行動しておられる限り、あなた方がそのようにお考えになるはずはありますまいに。……  それともあなたは失礼ですが、これまで人力の及《およ》ばなかった誤りでも、ご経験なさったのですか」 「いや、私は自分の良心に尋《たず》ねて、何ら恥《は》じることのない行動を取ってきたつもりです。  その点に関する限り、私は心に顧《かえり》みて、恥ずかしいとも疾《やま》しいとも思ってはおりません。私がもし自分の行動に、一つでも誤りがあったと感じていたならば、その時は私は即刻《そつこく》検事を退いておったでしょう。  しかし私は人間が人間の罪を裁く、または刑罰《けいばつ》を求刑《きゆうけい》するということに対しては、迷いと矛盾《むじゆん》とを感ずることが時々あったのです。  基督《キリスト》は、 『汝《なんじ》らの中にて罪なき者、この女を石にて打て』  といいましたね。私はそれほどの君子でも、また逆に偽善者《ぎぜんしや》でもありません。私は十分に自分の道を注意して進みました。私の判断に誤りがなかったつもりです。しかし職務上、重刑《じゆうけい》を求刑《きゆうけい》せねばならなかった被告《ひこく》や、その家族の眼を眺《なが》めたときに、私は心を石にしても、それでも検事席にいたたまれなくなったことが時々あったのです」  お羽黒《はぐろ》蜻蛉《とんぼ》が一匹《ぴき》——黒い羽を震《ふる》わせて、湖水の上から私たちの間を通り過ぎた。先刻から釣《つ》り竿《ざお》は動こうともしなかった。 「その本は何ですか」  彼は初めて、私の持って来た洋書に気がついたらしかった。 「これですか。ポーの短篇集《たんぺんしゆう》ですよ」  彼は静かに書物のページを繰《く》っていたが、私が栞《しおり》を挿《さ》しこんでいたページへ来ると、驚《おどろ》いたように私の方へ顔を上げた。 「『盗《ぬす》まれた手紙』ですね。あなたはこの小説がお好きなのですか」 「そうですね。まあ色々と感想もないではありませんが、世界の短篇探偵《たんぺんたんてい》小説の中では、一、二を争う最高の名作だと思いますね」  私は静かに答えて彼の表情を見つめたが、彼はじっと眼を閉じて、何か昔《むかし》の思い出を心に呼び起こしているようだった。私は更《さら》に言葉を続けた。 「しかし実際問題として、このようなことはあり得るものでしょうか。この小説の中に出て来る警視|総監《そうかん》のように、本のカバーに針《はり》を刺《さ》して調べ、椅子《いす》の接ぎ目を拡大鏡《かくだいきよう》で検査するほどの、厳密な検査を行っておりながら、机の上の状差しに露出《ろしゆつ》していた、当の手紙に気がつかないということなどが、果たしてあり得るものでしょうか。あなたは専門家の立場から、そのようなことが起こり得るとお考えですか」 「たしかにあり得ると思います。専門的|定石的《じようせきてき》な警察の捜査《そうさ》方針では、眼前に露出されている隠《かく》し場所に、気がつかないことはよくあることなのです。一種の心理的な盲点《もうてん》に入るのですね。私自身にも経験があります。それはこの小説に非常によく似た事件だったのです」 「いかがですか、参考のために、そのお話をして頂《いただ》けないでしょうか」 「そうですね。あなたも随分《ずいぶん》探偵小説がお好きなようですね。私は今その事件の解決のヒントを与《あた》えてくれた一人の青年のことを考えているのです。その青年も探偵小説は飯よりも好きな男でした。怠惰《たいだ》な狡猾《こうかつ》なところはありましたが、頭の働きはなかなか鋭《するど》い青年でした。この『盗《ぬす》まれた手紙』の理論を適用することによって、彼はある殺人事件の謎《なぞ》を解き、私の捜査《そうさ》を助けてくれたのです。……  今から五年ほど前のことでした。私の当時勤務していたN市で、巧妙《こうみよう》な殺人事件が起こったのです。殺されたのは、その土地でも屈指《くつし》の財産家の主人、横井省吾という変人で、その犯人は彼の若い妻——その名はたしか悦子といいました。犯罪方法は誠に巧妙なものでしたが、直接|証拠《しようこ》も犯人の自白もなく、それだけに私も非常に骨を折った事件なのです。ところがこの小説のように、動かぬ証拠は、誰《だれ》にも眼《め》につくようなところに、出し放しになっていたのでした。……  その女は素晴《すば》らしい美貌《びぼう》をもっておりました。私が警察から送局されて来た彼女に、初めて会った時には、さすがに長い留置所の生活に窶《やつ》れは見せておりましたが、それでも白粉《おしろい》一つ塗《ぬ》らずに雪のように白い肌《はだ》の色と、悲壮《ひそう》な情熱のこめられた黒い瞳《ひとみ》とは、私の心を何かしらひきつけずには置かなかったものです。女子薬専を出ているだけに、科学的な素養もあり、この小説のことも一応は知っていたのでしょう。まさか本能的に、あのような隠《かく》し場所を工夫したとは到底《とうてい》考えられません。  女の智恵《ちえ》というものは、ある意味では到底《とうてい》われわれ男には、及《およ》びもつかないものがあるのではありますまいか。それは平素は人目につかずに、蔭《かげ》に隠《かく》されているのかも知れません。しかし最後の土壇場《どたんば》に押《お》しつめられたとき、それは鬼火《おにび》にも似た怪《あや》しい光芒《こうぼう》を放つものなのです。  彼女はN市の中流の家庭に生まれました。女子薬専へ入学することも、彼女の家庭には、容易ならない負担だったようです。彼女が卒業すると同時に、両親が相次いでなくなり、彼女はただ一人取り残されてしまったのですから。今日ほどではなかったとしても、当時は女一人が生きて行くのにはなかなか困難な時代でした。  彼女が横井氏からの結婚《けつこん》の申し込みを承諾《しようだく》したことについては、私は彼女を咎《とが》めることは出来ません。だが彼女のためを考えるならば、まだ思慮《しりよ》が足りなかったのではないかと思わずにはおられないのです。横井氏の方が二十も年上であり、しかもそれが四度目の結婚だったのですから。  彼と結婚《けつこん》した女は必ず体を悪くして、早死するのが常だったのです。財産はあまるほど持っていましたが、変人で吝嗇《りんしよく》で、お手伝いさえ待遇《たいぐう》の悪さにはたまりかねて逃《に》げ出すことがしばしばだったと申します。  彼女も金が目当で、横井氏の所へ嫁《とつ》いだのではありますまい。しかし長年愛し続けていた愛人が戦死した、という誤報が伝えられて来なかったならば、彼女はこの結婚を承諾《しようだく》するはずはなかったでしょう。最早この人生には何物も残されてはいない。おそらくこのような絶望的な虚無《きよむ》的な気持ちから、彼女は自らの運命を踏《ふ》み違《ちが》えたのでしょう。しかし彼女の愛人——野口兼二とかいったと思います。その戦死は全くの誤報だったのです。同名異人だったのか、それとも外《ほか》に何かの誤りがあったのか——ともかくそのような事件は、敗戦の色濃《こ》くなりはじめた当時の日本には、往々にして見られた出来事でした。  だが何《いず》れにもせよ、たしかな方面から自分の愛人が、まだ生きて第一線で戦い続けている、ということを知ったときは、彼女はもう横井夫人になっていたのでした。  それからというものは、彼女の心境にも重大な変化が起こって来たらしいのです。幾度《いくど》か離婚《りこん》を決意したような跡《あと》がうかがわれるのです。  しかし横井氏は、変質的な愛情を彼女にそそいでおりました。いや、彼女だけではありません。一旦《いつたん》手に入れた物は何によらず、いかなる手段を講じても守り抜《ぬ》こうとする非常な執着心《しゆうちやくしん》が、彼の性格の第一の特長だったのです。  横井氏は当時|結核《けつかく》に悩《なや》まされておったのでした。氏の死後、主治医から私の聞いたところによりますと、氏の生命は最早時間の問題だったということです。氏もそれを知り、死を迎《むか》える覚悟《かくご》は出来ていたらしいのですが、さすがに妻には最後まで、そのことを明さなかったのでしょう。彼女にしたところで、良人《おつと》から解放されるのが時間の問題だ、と分かっていたならば、いくら良人を憎悪《ぞうお》していたとしても、まさか恐《おそ》ろしい殺人罪を犯してまで、その束縛《そくばく》を断ち切ろうとするはずがないではありませんか。  横井氏は変態的な愛情を、夫人にそそいでいたのです。死後、氏の邸《やしき》の一室から発見された責道具の数々、私は今それを口にするさえ忍《しの》びないような気がするのです。二人ともこの世の人ではない今日、そのようなことを口に出すのも気が進まないのですが、氏は夫人を毎日のように鍵《かぎ》のかかった一室に連れ込み、変質的な享楽《きようらく》に耽《ふけ》っていたらしいのです。  部屋《へや》からは絶えず高い鞭《むち》の音と女の悲鳴とが洩《も》れていました。あるお手伝いなどは好奇心《こうきしん》に駆《か》られて鍵穴から部屋を覗《のぞ》きこみ、夫人が真裸《まつぱだか》で寝台《しんだい》の上に縛《しば》りつけられ、その背中《せなか》が横井氏の打ちふるう鞭で、紫色《むらさきいろ》に腫《は》れ上がっているのを見て、震《ふる》え上がって家を飛び出してしまったということでした。この殺人事件の後で警察に連行された夫人の背中は、その時赤紫色にただれ切っていたということです。  事件の発生したのは二月の十四日のことでした。N市は毎年のようにそのころは日本海から吹雪《ふぶき》が襲来《しゆうらい》し、町中は二階まで届くような、深い雪に埋《う》められてしまうのです。  その吹雪《ふぶき》の中を午後二時ごろ、加藤という医師が横井氏の家を訪《おとず》れました。玄関《げんかん》で案内を乞《こ》うと夫人が出てきましたが、その時夫人は何の取り乱した色は見せず、平素と全然変わってはいなかったのです。加藤医師は横井氏とは長い交際でしたので、別に遠慮《えんりよ》もせずにそのまま家へ上がり込みました。そして横井氏が寝台《しんだい》で疲《つか》れて寝《ね》ている、ということを聞いて、そのまま夫人と一緒《いつしよ》に廊下《ろうか》を歩いて、寝室《しんしつ》の扉《とびら》をノックしました。その部屋《へや》は洋室だったのですが、叩《たた》いても何の答えもありません。代わって夫人が中へ声をかけました。しかし部屋の中は相変わらず静まり返っています。夫人は朝から良人《おつと》がこの部屋に入ったきりだ、と答えましたが、加藤医師は横井氏の神経質な性質をよく知り抜いていました。そしてまた彼は前日|往診《おうしん》した時の横井氏の話から、ある不吉な予感を抱《いだ》かずにはおられなかったのでした。彼は青ざめて側に立っている夫人の了解《りようかい》を求めると、扉《とびら》を壊《こわ》して部屋の中に押《お》し入《い》ったのです。  勿論《もちろん》吹雪の最中ですから、部屋の窓は完全に内部から締《し》め切《き》ってありました。鍵《かぎ》は部屋の中の卓子《テーブル》の上にのっており、ストーブの中には薪《まき》が燃されておりましたが、それも半《なか》ば燃え切っており、卓子の上の小さな桐《きり》の火鉢《ひばち》に盛《も》られた炭火も、ほとんど灰になっておりました。そしてその卓子の側の安楽椅子《いす》の上には、和服の横井氏の死体が横たわっていたのです。  この事件の解決の功績の一半は、加藤氏の適宜《てきぎ》の処置によるところが大きいのです。氏は早速死体を応急検査すると、即刻《そつこく》夫人を電話室に伴《ともな》い、警察へ電話をかけたのです。夫人は警察ときくとぎくりとしたのでした。 「先生、あなたは主人の死因《しいん》に、何か疑いをお持ちなのでしょうか」  彼女は興奮して、加藤氏を見つめたということです。その眼は明らかに、ある種の懇願《こんがん》に満ちていたことでしょう。しかし加藤医師は正義観の溢《あふ》れている医師でした。訴《うつた》えるように全身にからみつく彼女の視線と、涙《なみだ》をこぼしながら哀願《あいがん》するその言葉を押《お》し切って彼は警察へ電話をかけました。そしてそれから後の夫人の行動は、すべて氏によって監視《かんし》されていたのです。  警察の一行が到着《とうちやく》したのは、それから十五分ほど後でした。加藤氏が毎日の例よりも一時間ぐらい早く訪問していたことが、どれだけこの事件の解決に役立っていたか、あなたも間もなくお分かりになることでしょう。  死亡時間は午後一時半ごろということが分かりましたが、死因は即座《そくざ》には判明しなかったのです。加藤氏も警察医も、何かの中毒死で自然死ではない、というだけで、死因の決定は後日の解剖《かいぼう》に持ちこされたのです。勿論《もちろん》よくある、炭火の一酸化炭素の中毒ではなかったのでした。  警察の取り調べは、先《ま》ず加藤医師に対して行われました。いくら何でも、人の家の部屋の扉《とびら》を壊《こわ》すなど乱暴ではないか、という問いに対して、彼はこう答えたということです。 「私は横井氏の生命に対して、不吉な予感を感じていたのです。勿論《もちろん》氏の生命は、病気の進行状態から考えても、後半年か一年とは思っておりましたが、一、二日の間に、そんな急速に悪化するとは考えられませんでした。横井氏は長い病床《びようしよう》生活から、医学の方にも一通りの素養は身についていたようです。私のすすめた開放|療法《りようほう》も、快く受け入れて実行して居たくらいですから。だが昨日|往診《おうしん》の後で、横井氏は夫人を遠ざけて私にこう囁《ささや》いたのです。 『先生、私は家内に殺されるかも知れません』  私は思わず氏の顔を見つめました。私は夫人とはここ二、三年のおつきあいですが、まさか横井氏が、本気でこんなことを考えているとは思われなかったのです。  しかし氏は話しつづけました。 『あれは悪魔《あくま》の化身《けしん》なのです。顔は美しく微笑《ほほえ》んでいても、腹の底であれがどんなことを考えているか、私にはよく分かっているのです。あれは私の病み衰《おとろ》えた肉体には、堪《た》え切れないくらいの重荷なのです。私の病気は次第に、あの女の欲望《よくぼう》を満足させることが出来なくなって来ました。しかしそれでも何の呵責《かしやく》もなく、あれは私にはどうすることも出来ないくらいの、刺戟《しげき》を要求してやまないのです。  私は今も悩《なや》みつづけています。あの女が外の男の所へ走らないのは、ただ私の財産に未練があるからだけなのです。もしあれが私の長くないことを知っているならば、おそらく何年でも待っていることでしょう。しかしそれは私だけの秘密なのです。あれには私の死が待ち切れますまい。あれは明日《あす》にも私を殺すかも知れません。ただあの女は痕跡《こんせき》を残すようなへまはやらないでしょう。誰《だれ》も分からないような巧妙《こうみよう》な殺人方法を考え出すに違《ちが》いありません。ただ私は死んでからも霊魂《れいこん》の力を借りてでも必ずその証拠《しようこ》を発《あば》き出して見せます』  私は物凄《ものすご》い鬼気《きき》と執念《しゆうねん》とに襲《おそ》われて、早々にその場を立ち去りましたが、その言葉が気になっていたので、今日はいつもより一時間も早く、ここへ来たのでした、そして部屋《へや》の扉《とびら》が開かないのを知った時に、私は頭の中に閃《ひらめ》くものがあったのです。……」  加藤氏への尋問《じんもん》はまだ続いたのですが、この事件の本筋とは関係がありません。だがこの証言は夫人に対して重大な疑惑の影《かげ》を投げたのです。夫人への尋問は、終始|緊張《きんちよう》した空気の中で、進められて行ったのでした。  夫人の言葉によると、一人いるお手伝いは午前十時ごろから使いに出されて、まだ帰って来ていなかったのです。これはその後間もなく帰って来た、女中の証言からも確かめられました。  お手伝いの出掛《でか》けた時、既《すで》に横井氏は寝室《しんしつ》の中へ入っていたということです。そこまでは確かなのですが、さてそれから後が夫人一人だけだったのです。  警察の尋問《じんもん》は先《ま》ず、その後横井氏が寝室《しんしつ》から出て来なかったか、という点に向けられたのです。夫人はその問いに対して、昼食の時にも部屋《へや》の外から知らせたが出て来ず、それからも一度も外へは出て来なかった、と答えました。  しかしその言葉には明らかに偽《いつわ》りがあったのです。あのような巧妙《こうみよう》な殺人方法を考え出した彼女にも、大きな一つの見落としがあったのです。  N市のような雪国では、暖房装置《だんぼうそうち》は勿論《もちろん》完備しております。日本間でも冬になれば、小型のストーブを入れるくらいですから、この洋間にも、大型のストーブは用意されてありました。  燃料はこの辺は普通《ふつう》、薪《まき》が使われているのですが、その部屋《へや》にもストーブの側には、薪と灰掻《はいか》きが用意してありました。しかし何のためにストーブの外《ほか》に炭火を火鉢《ひばち》におこす必要があったのでしょう。暖房だけの目的なら、ストーブだけで十分なはずです。そして小さな火鉢に一度おこした炭火の寿命《じゆみよう》は、どのくらいのものでしょう。あなたも実験してごらんなさい、せいぜい三時間ぐらいのものでしょう。五時間は灰に埋《う》めていない限り保《も》ちません。ところが加藤氏が部屋に踏《ふ》み込んだ時も、警察が到着《とうちやく》した時も、炭火はまだ灰になり切ってはいなかったのです。そしてその部屋の中には、炭取りがどこにも発見されなかったのでした。  横井氏が自分で部屋の中で炭火をおこしたならば、炭取りは部屋の中に発見されなければならないはずです。そして夫人の言葉が本当で、横井氏も部屋《へや》を出て来ず、夫人も部屋に入らないとしたら、炭火は一体|誰《だれ》がいつ何の目的でおこしたのでしょう。  夫人はその点では、一言も申し開きは出来ませんでした。ただおどおどと、意味のない言葉を口走っていただけだったのです。夫人の言葉もお手伝いの証言も、彼女を救うことは出来ませんでした。夫人はその場から、横井氏の殺害容疑者として、逮捕《たいほ》収容されてしまったのです。  ところが横井氏の死因《しいん》は、解剖《かいぼう》によっても判然《はんぜん》としませんでした。警察当局は躍起《やつき》となって証拠《しようこ》固めにかかったのです。そして遂《つい》に凱歌《がいか》が上げられたのでした。横井氏の親類のある薬剤士が、数日前夫人に、主人がほしいというのでといわれて、内密で砒素《ひそ》を渡《わた》したということが分かったのです。その量は相当のものでした。優に四人や五人は殺せる分量だったのです。ところが砒素《ひそ》ならば、解剖によって分からないはずがありません。遂にD大学で木下博士によって、ふたたび精密な解剖が行われました。そしてその結果、辛《かろ》うじて砒素中毒の痕跡《こんせき》が発見されたのです。しかしそれは普通《ふつう》のように、消化器に吸収されたものではなく、ガスとして呼吸されたものであり、そのため検出が困難だったのだ、ということでした、これは木下博士の、法医学上の新しい発見の一つでした。火鉢《ひばち》の炭火は、砒素を燃焼するために使用されたのでした。  犯行の方法はこのようにして、段々と明らかにされて来ました。夫人は一時ごろ炭火をおこして、部屋《へや》の扉《とびら》をノックして鍵《かぎ》を開かせ、火鉢《ひばち》に炭を入れて部屋を出たのでしょう。横井氏は何も知らずに、鍵を内側からかけまた扉を閉じます。  ところが炭の中には砒素が混じてあります。日本間と違《ちが》って西洋間は空気の流通が悪く、ガスは集積して遂《つい》に横井氏を倒《たお》したのでしょう。それは殆《ほとん》ど瞬時《しゆんじ》の出来ごとだったのでしょう。横井氏は鼻疾《びしつ》に侵《おか》されていて、物の臭《にお》いが殆んど分からなかったそうですから、ガスの臭気《しゆうき》にも殆ど気がつかなかったのでしょう。  それでは加藤氏に、どうしてガスの存在が分からなかったか、という疑問が起こります。ところが加藤氏が部屋へ侵入《しんにゆう》した時には、廊下《ろうか》の天井《てんじよう》に近い廻転窓《かいてんまど》が開いていて、ガスは部屋の中から、発散してしまっていたのでした。  それを開いたのは誰《だれ》でしょう。夫人は激《はげ》しく追求された結果、玄関《げんかん》の呼鈴《よびりん》が鳴ってその廊下《ろうか》を通ったとき、その廻転窓が閉じているのに気がついたのだと語りました。いつも加藤先生から、やかましく開放|療法《りようほう》に注意されており、この部屋に入る時には、必ず神経質にこの窓を開けておくのに、どうして今日は忘れたのだろう、と思って廊下《ろうか》から棒でつついて窓を開いたものだということでした。  警察当局はここまで来ると、もう夫人が犯人だということに、何の疑いも持たなかったのでした。横井氏の日記もそれを裏書きしました。  最近の記事の中には、妻に対する恐怖《きようふ》と疑惑《ぎわく》とが、まざまざとうかがわれたのです。そしてまた夫人が、その鍵《かぎ》の掛《か》かった手文庫の中に、初恋《はつこい》の人、野口兼二の手紙の束《たば》と写真を、秘め隠《かく》していた、ということも動機に対する傍証《ぼうしよう》の一つだったのです。  彼女を殺人罪で起訴《きそ》する証拠《しようこ》は、これでもう十分のように思われました。勿論《もちろん》彼女は犯行を認めようとはしませんでしたが、他の検事ならばこれだけで起訴を終わっていたことでしょう。しかし私は慎重《しんちよう》を期するのが常だったのです。犯行に用いた砒素《ひそ》の残りが、私にはどうしても欲しかったのでした。  警察当局は、まさか逮捕《たいほ》されるまで持ってはいないだろう。全部使ってしまったか、それとも残りは雪の中に捨てるかしたろう、という意見を出しました。しかし私は譲ろうとはしなかったのです。炭火の例でも分かるように、犯人には案外に手落ちがある。何度も砒素を入手することが困難である以上、第一回の犯行に失敗した場合を考えて、必ず余分は残してあるはずだ。そして加藤医師が一時間早く家に訪《たず》ねて来た以上、それは必ず家の中にあるはずだ。私はこのような信念を持ったのです。  ポーの小説に似ているのは、これから後の段階なのです。警察は血眼《ちまなこ》になって、家中を捜査《そうさく》しつくしました。親類や関係者の立ち入りも数日は禁止され、徹底《てつてい》的な捜索《そうさく》が何日も続けられました。畳《たたみ》は一枚一枚、畳表をはぎとって調べられ、箪笥《たんす》の中の衣類は一枚残らず、ピンを刺《さ》して検査されたのです。しかしその結果は明らかに失敗でした。砒素《ひそ》はどうしても発見されなかったのです。  私の信念は大分ぐらついてきました。彼女は何度取り調べても、自分の無罪を主張したのです。 「私は人を殺せるような女ではありません。どうか私の眼《め》を見て下さい。この眼は良人《おつと》を毒殺した女の眼でしょうか」  その二つの大きな眼は、私にこのような無言の叫《さけ》びを、浴びせているように思われました。私はたまりかねて、思わず眼をそらしたことも度々《たびたび》だったのです。  そのようにして幾日《いくにち》かが過ぎました。迷い続けていた私の所へ、横井氏の弟が訪《たず》ねて来たのです。  横井氏のただ一人の弟で、犯罪が行われた当時は樺太《からふと》へ旅行していたが、電報を見てあわてて、引き返したのだ、ということでした。  彼は今ではちょうど、あなたと同じ年ごろでしょう。二十四、五の、痩《や》せぎすの背の高い青年で、眼は狡猾《こうかつ》そうにすばやく動いておりました。どこか人を食ったような、生意気なところはありましたが、いろいろ話をした後で、彼は私にこう囁《ささや》いたのです。 「警察では砒素《ひそ》の発見に、随分《ずいぶん》骨を折っていたようですね。しかしあんな捜査《そうさ》方法では絶対に見つかるわけはありませんよ」  彼はこう言って鼻を鳴らして笑いましたが、私はその時何だか、自分まで馬鹿《ばか》にされているような気がして、思わずかっとなったのです。 「あなたは警察の捜査方法を、ご存じなのですか」 「ええ、警察に知り合いがいたので、頼《たの》んで立ち合いで跡《あと》を見せてもらいました。あれではまるでポーの小説の警視|総監《そうかん》そのままの捜査方法ですね。悪いことはいいません。デュパン流の飛躍《ひやく》した考え方を働かせるのですね。女の奸智《かんち》というものはいざとなると、あの小説の大臣ぐらいには働くものなのですよ」  嘲笑《ちようしよう》するような一言《ひとこと》を残して、彼は検事局を去りましたが、私はその時電気にでも打たれたように、頭の中にある考えが閃《ひらめ》いたのです。  私は早速警察署へ電話し、捜査主任を同道して、横井氏の家へ赴《おもむ》きました。そしてポーのデュパンのような考え方で、ふたたび各部屋を検《しら》べて行ったのです。  ところが夫人の居間へ来たときに、私の眼は夫人の鏡台の前に止まったのです。鏡台の上には粉白粉《おしろい》の箱《はこ》が一つ蓋《ふた》を開いたまま、出し放しになっていたのでした。 「君、これに気がついたかね」  私は傍《かたわ》らに立っていた主任にたずねました。 「いいえ、全然気がつきませんでした」  私はその答えをきいた時に、ぐっと心に思いこたえたものがあったのです。その外《ほか》には私の注意をひいたものはありませんでしたが、しかしその白粉の箱の中には、たしかに砒素《ひそ》が入っていたのでした……。  私の決心はこれできまりました。私は十二分の自信をもって、彼女を殺人罪として起訴《きそ》することが出来たのです。  彼女は公判|廷《てい》に於《お》いてさえ、終始犯行を否認しつづけましたが、私は最早何の迷いも不安もなく、殺人罪として死刑《しけい》を求刑《きゆうけい》しました。  判決は結局一等を減じて、無期|懲役《ちようえき》にきまりましたが、判決の決定した時に、私の方へ上げられた彼女の眼の光を、私は永久に忘れることは出来ますまい。あんな眼は私の長い検事生活にも、初めての恐《おそ》ろしい経験だったのです。  彼女は上告でも同じ判決を下され、結局服役中に病気で死亡したとききました。横井氏の弟は、その後応召し、北支で戦死したとかいうことです。  この事件は私が在職中に扱《あつか》った数多くの事件の中でも、最も忘れ難い事件だったのです。  湖水の表面は碧玉色《へきぎよくしよく》に美しく輝《かがや》きわたり、森の中で鳴いている蝉《せみ》の声が、はじめて私の耳に入った。私は今まで、夢中《むちゆう》になって彼の話に耳を澄《すま》していたのだった。 「どうも詳《くわ》しいお話を、有難うございました。なるほどポーの『盗《ぬす》まれた手紙』が、あなたにその事件の記憶《きおく》をよみがえらせたわけですね」 「そうです。あのような人間心理の弱点を巧《たく》みに把握《はあく》したポーは、たしかに文学史上に不朽《ふきゆう》の名を止《とど》める天才なのですね」 「勿論《もちろん》です。ポーの天才には私も讃辞《さんじ》を惜《おし》む者ではありません。そして私などは、その点ではポーの爪《つめ》の垢《あか》を嘗《な》める資格さえありません。しかし倉持さん、この小説には今一つの解答があると思うのですが」 「それはどういう解答なのですか。デュパンの推理に、あなたは誤謬《ごびゆう》があるというのですか。彼は立派に盗まれた手紙を発見出来たではありませんか」 「なるほど、あなたは『立派に』といわれましたね。手紙は邸内《ていない》にはない。というのが警視|総監《そうかん》の第一の解答でした。手紙は邸内にある。というのがデュパンの第二の解答でした。  彼は自らの解答にしたがって、立派に手紙を発見出来ました。しかし私の第三の解答では、それが『幸運に』と修正されるのです」 「あなたは何をいおうとなさるのですか」 「それでは、私の、あの小説に対する第三の解答を申し上げましょう」  盗《ぬす》まれた手紙は最初には邸内には隠《かく》されていなかった——。  私の推理はそれを根本の仮説として出発します。デュパンが大臣の邸《やしき》を訪《おとず》れたのは、警視|総監《そうかん》の三か月にわたる捜査《そうさ》が、失敗に終わった後だった、ということを忘れてはなりません。  総監は三か月の間、大臣の邸を捜査しぬいたのです。椅子《いす》のクッションには針が刺《さ》しこまれ、敷地《しきち》の煉瓦《れんが》の接ぎ目には拡大鏡がむけられたのです。  それにもかかわらず、大臣は平気で夜の間家を空《あ》けて外出しておったのでした。警視庁の一隊は強盗《ごうとう》を装《よそお》って、路上に彼の身体検査を行いました。それも一度や二度には止《とど》まらなかったのです。  その一方、大臣はその手紙を持っていることを力にして、一日一日と政治的な圧力を加えて行きました。そして三か月の捜査に疲《つか》れ切って、総監がデュパンの許《もと》を訪れた時には、大臣を取り巻く政治的な陰謀《いんぼう》は、その手紙を即刻《そつこく》使用し得ることを、いいかえれば即刻破き去ることが出来るのを、必要とする段階にまで進行していたのです。  これがデュパンが、邸内に手紙がかくされている、と推理した根本の理由だったのですね。たしかに事態はその時は、そこまで進行していたかも知れません。しかし総監《そうかん》が捜査《そうさ》を開始した当時から、事態がそこまで進行していたとは、私にはどうしても思えないのです。なぜかというと、大臣はその間は、平気で夜に家を空けて外出しています。勿論《もちろん》手紙は絶対につけてはおりません。とすれば、外出先で、その手紙を破き去らなければならない事態が発生したとすれば、大臣は一体どうすればよいのでしょう。  また相手が死物|狂《ぐる》いになって大臣を誘拐《ゆうかい》し、どこかに軟禁《なんきん》して、手紙の在り場所を白状させようとする手段に出ることも、考えられないではありません。勿論その時は、まだ手紙が発見されないということが、大臣にとっても大きな護身の武器となるでしょう。しかしその危険を防ぐためには、手紙は絶対に発見されてはならないのです。  デュパンの推理は理論的には、一点の矛盾《むじゆん》もないように思われます。巴里《パリ》の警視庁のやり方をよく知りぬいている大臣が、逆に手紙を露出《ろしゆつ》して捜査《そうさ》の裏を掻《か》いたという考え方は、たしかに素晴《すば》らしい着想に違《ちが》いありません。  しかし大臣はそのことに思い当たったときに、偶然《ぐうぜん》というものの力を恐《おそ》れはしなかったでしょうか。推理によって、捜査の目標は完全にそらすことが出来たにもせよ、何か偶然《ぐうぜん》の力が働いて、誰《だれ》かの手がその封筒《ふうとう》にふれることはないだろうか。——これは人智《じんち》の推《お》し測《はか》り得るところではありません。どんな数学者でも詩人でも、偶然の力に対抗して推理を進めて行くことは出来ないのです。  大臣は数学者と詩人との、相反する両面の性格を備えていました。そして詩人ほど、偶然の力の大きさを感じている者はないのです。その自然の力に抗《こう》してまで、手紙を邸内《ていない》にかくすということは、真の詩人にはなし得ない冒険《ぼうけん》ではありますまいか。  大臣は一旦《いつたん》その手紙を、邸外《ていがい》のどこかにかくしていたのではないでしょうか。それは警視庁の捜索《そうさく》の力の及《およ》ばない所です。そして一方では、三か月の間警視庁を無益につかれさせ、一方では着々と、陰謀《いんぼう》の計画を進めて行ったのではありますまいか。  これは勿論《もちろん》フェアプレイではないかも知れません。しかし陰謀にはフェアプレイなどあり得ようはずがありません。  このようにして三か月後には、総監《そうかん》は絶望し切って、手紙は邸内にはない、という第一の解答に到達《とうたつ》しました。  大臣の予想したように、その邸内はいわば完全に免疫《めんえき》され切ったのです。第二次の捜査がもし行われたとしても、それは情熱を欠いた、なおざりのものに過ぎますまい。  一方|陰謀《いんぼう》の発展は手紙の使用を即時《そくじ》に必要とするかも知れない、という事態にまで進展しました。大臣は今度こそ偶然《ぐうぜん》にも対抗《たいこう》し得る、という十分の自信をもって、初めて手紙を邸内《ていない》に持ちこみ、状差しの中にさしこんだのではありますまいか。  デュパンは幸運にもここから出発することが出来たのです。そのために彼の第二の解答が勝利を占《し》めたのです。しかしデュパンが、総監《そうかん》と同じ段階から出発していたら、盗《ぬす》まれた手紙を発見することは果たして出来たでしょうか。私は多分に疑いを挿《はさ》まずにはおられないのです。大臣は偶然との勝負に敗北した。デュパンは幸運に恵《めぐ》まれて勝利を得た。  これが私のこの小説に対する、第三の解答なのです」  私は強く言い切って倉持氏の顔を見つめたが、その顔にはいつの間にか、強い疑惑《ぎわく》と不安の影《かげ》が漂《ただよ》いはじめているのを、私は十分に見て取ったのだった。 「この第三の解答は、あなたの今お話しになった事件には、存在していないのでしょうか。私がお伺《うかが》いした限り、この事件には第一に、横井氏の自殺という解答があるように思われます。部屋《へや》の鍵《かぎ》の件と加藤氏の話とが、それを暗示します。おそらくあなたも内心では、それを疑っておられたのではないでしょうか。その割り切れない、形をなしていない不安が、あなたに起訴《きそ》を躊躇《ちゆうちよ》させるように動いたのではありますまいか。  第二の解答は、夫人が横井氏を毒殺した、という見方です。これは木炭の件によって証拠《しようこ》づけられております。あなたが後日鏡台の前の白粉箱《おしろいばこ》の中から発見された砒素《ひそ》が、有力な一つの手掛《てが》かりです。しかし私はこの事件にも、第三の解答が存在すると考えるのです。  白粉箱の中には最初から砒素がかくされてあったのでしょうか。いや白粉箱は最初からその部屋にあったのでしょうか。  あなたはその砒素を発見なさらなかったら、第二の解答をあくまで固執《こしつ》されておったでしょうか。  あなたの性格には、多分に暗示と刺戟《しげき》とに感じ易《やす》い一面が存在すると思います。あなたが私に、今日この事件のお話をして下さったのは、どういうわけだったのでしょう。私の持っていたこの小説に刺戟されたためではありませんか。そして私が今日ポーの短篇集《たんぺんしゆう》を持ってここへやって来たのを、あなたは単なる偶然《ぐうぜん》とお考えですか。それと同時に、横井氏の弟があなたを訪《たず》ねて、ポーの『盗《ぬす》まれた手紙』について語ったのも、これも単なる偶然に過ぎないのでしょうか。  デュパンの場合は、結果に於《お》いて第二の解答も第三の解答も、一致《いつち》した点に到達《とうたつ》しました。偶然はデュパンに味方していたのです。しかしこの場合、あなたが偶然に恵《めぐ》まれたと考えていたことは、すべて第三者によって人為《じんい》的に仕組まれた、恐《おそ》ろしい陥穽《かんせい》ではなかったでしょうか。  大臣は勿論《もちろん》、デュパンが手紙を発見するとは、予想してはいませんでした。しかし横井氏の弟は、この小説の聯想《れんそう》によって、あなたが白粉箱《おしろいばこ》の中にかくされた砒素《ひそ》を発見することを、予想していたのではないでしょうか。それではなぜ警察が捜査《そうさ》に当たった時は、発見されなかったのでしょう。その部屋《へや》の写真は撮影《さつえい》されていましたか」  彼はだまって頭を垂《た》れた。その答えは明らかに——否だったのだ。 「警察が部屋を捜索《そうさく》した時に、その白粉箱がなかったとします。勿論そんな物一つ二つの有無など、誰《だれ》も気にとめてはいないでしょう。しかし、もしその時あったものならば、誰かの手に触《ふ》れていたろう、ということはいえるでしょうね。それでいて誰にも気づかれず、あなたが初めて気がついたというのでは何だか話が上手《じようず》に運んでおり過ぎるではありませんか。  それでは白粉箱を鏡台の前に置いたのは、一体誰なのでしょう。時間的にも心理的にも、横井氏の弟が一番疑われるではありませんか。いやおそらく彼以外に、そんなことをする可能性のある人間はいないでしょう。しかし彼は何のためにそんな冒険《ぼうけん》をしたのでしょうか。  彼は夫人が兄の殺人犯人として処刑《しよけい》されたならば、兄の財産をそっくりそのまま受け継《つ》ぐことが出来ます。あの兄弟には首吊《くびつ》りの足でも引っ張りかねないような、嫌《いや》なところがあるのです。  あなたは今まで余りにも、ポーの推理に眩惑《げんわく》され過ぎていました。白粉箱《おしろいばこ》の砒素《ひそ》には、このような見方が考えられます。とすれば、あなたの第二の解答の根拠《こんきよ》も、全然前とは変わってくるわけですね。といって私は、横井氏を殺したのが弟の仕業《しわざ》だったなどというのではありません。彼には十分のアリバイがあります。  彼は端役《はやく》を一役、買って出ただけのことです。  といって、お手伝いや加藤氏が犯人だとも考えられないことです。とすれば残る問題はただ一つ——夫人が横井氏を殺したか。それとも殺さなかったか。ということです。  一体夫人が横井氏を殺したという直接|証拠《しようこ》は、存在しているのでしょうか。砒素が以前からそこにかくされてあったとしたところで、私にはまだ、夫人を犯人だと言い切ることは、困難ではないかと思います。ましてそれが、最後の瞬間に持ちこまれたものであったとしたならば、この解決は一体どうなるのでしょう。あなたが夫人を犯人だと推定なさった根拠《こんきよ》は、すべて否定の否定に基《もと》づくものです。夫人が犯人でないとすると、こんなことは考えられない。  これがあなたの論理です。ところが実際の世界では、負数に負数を掛《か》けても、その結果は必ずしも正数にはならないのです。  たとえばあなたは火鉢《ひばち》の炭火が、九時ごろにおこされたものではない、と考えられています。  その点は私も納得出来ますが、しかし炭取りが室内になかったという理由だけで、それが室外から持ちこまれたものだ、と断定出来るでしょうか。  何度も炭火をつぎ直すためには、なるほど炭取りも必要でしょう。しかし一度|特殊《とくしゆ》の目的で、炭をおこすためならば、必ずしも炭取りの必要はないではありませんか。たとえば横井氏が、紙に幾《いく》らかの炭を包み、それをかくして部屋《へや》の中へ持って入ったとします。そしてそれをストーブの中でおこし、火鉢に入れたとする。その後で包んで来た紙を、ストーブで燃してしまう。このようなことは考えられないものでしょうか。  横井氏は神経質な人間だ、ということでしたね。それでなくても呼吸器の病気が進行してくると、神経は異常に研《と》ぎすまされてくるものなのです。彼は加藤氏の勧告によって、開放|療法《りようほう》を厳格に実行していました。ところがこの療法は、たとえ冬の最中でも窓を開けて床《とこ》につくものなのです。勿論《もちろん》、部屋の暖房《だんぼう》には十分に注意してはいるのですが。  そのような横井氏が、なぜその時に限って、部屋を密閉してしまったのでしょう。しかも炭火を夫人が持ちこんだとしたところで、窓を全部密閉することまで彼は許すでしょうか。横井氏が床《とこ》について寝《ね》てでもおったのなら、あるいはそんなことも起こり得ないでもありますまい。しかし彼はその時、起きていたのでしょう。とすれば、ガスによって毒殺するということは、言い易《やす》くして行い難いことではありますまいか。  むしろ砒素《ひそ》が最後まで発見されなかったならば、その時にはかえって夫人を疑えるでしょう。夫人は自分で薬剤士から砒素を入手しました。たとえその殺人方法が、いかに痕跡《こんせき》を止《とど》めずに行い得るものだったとしても、その薬品の入手の方法に欠陥《けつかん》があったら、それは犯罪方法としては、完全なものとはいえません。ましてその方法が実行困難な時には、なおのことです。  そして砒素が残っていたということには、私は第三者の作意を感ぜずにはおられないのです。夫人が犯人だったとしたならば、加藤氏が訪《たず》ねて来て、夫人が通風窓を開いた時には、犯罪の成功失敗は、夫人には既《すで》に分かっていたことでしょう。成功したとすれば、最早残りの砒素の必要はありません。失敗したとすれば、夫人は同じ方法によって、ふたたび殺人を計画するような気を起こすでしょうか。むしろ一旦《いつたん》薬を捨てて、別の方法を進めようとするのが自然ではありませんか。  もしまた夫人が犯人でなくても、横井氏が不自然な死に方をし、夫人が砒素の在り場所を知っていたとしたら、何よりも先《ま》ず自衛のために、それを捨てようとするのが自然でしょう。  砒素が残っていたということは、夫人自身もその在り場所を知らなかったことを物語っているのです。  それならば、私たちは再び第一の解答に帰らないわけには行きません。横井氏が自殺したと考える時に、初めてこの事件の秘密が解けるのではないでしょうか。  その動機は、嗜虐《しぎやく》性の極度まで進展したものといえるでしょう。彼は変態的な愛情を満足させるために今まで三人の女性をその犠牲《ぎせい》としました。ところがその欲望はますます進行して行きます。刺戟《しげき》というものは、一度満たされれば、更《さら》に強烈な刺戟を求めてやまないのです。  しかし彼の生命の火は、今や燃えつきようとしています。彼の肉体は最早、彼の神経と官能とを、満足させる力がありません。だが彼は自分の一度手に入れた物に対しては、貪慾《どんよく》ともいうべき執着《しゆうちやく》を持っています。消えようとする燈火《とうか》が最後の光芒《こうぼう》を放つように、彼は一世一代の大芝居《おおしばい》を打とうとしたのではないでしょうか。  遂《つい》に征服し得なかった妻が、他の男の手の中に眠《ねむ》るかも知れないということは、彼の到底《とうてい》忍《しの》べないことだったのではありますまいか。彼はあと半年か一年の自分の生命を犠牲にしても、妻の後半生を縛《しば》りつけてしまおうとしたのではないと、誰《だれ》がいえましょう。それがサディズムの極致《きよくち》なのです。  彼は何かの理由をつけて、夫人に砒素《ひそ》を入手させ、加藤氏に夫人の砒素を暗示するようなことをほのめかして、遂《つい》に自らの生命を断ったのでしょう。  砒素《ひそ》を使用した理由も、私にはよく分かるように思うのです。あなたはドストエフスキーの『悪霊《あくれい》』の最後——主人公が自殺する際に、絹の紐《ひも》に石鹸《せつけん》を塗《ぬ》りつけて首を吊《つ》った。という幕切れで、何か冷たい戦慄《せんりつ》を覚えたことはありませんか。  むかし快楽に身を委《ゆだ》ねつくしたローマの貴族は、自ら死を選ぶ時には、香料風呂《こうりようぶろ》の中で動脈を切って自殺したのです。そして結核《けつかく》に悩《なや》まされていた横井氏には、呼吸器の中に巣食《すく》う細菌《さいきん》をガスで死滅《しめつ》させるということに、皮肉な喜びを感じていたのかも知れません。医学的にも呼吸器病の進行した病人が、ガス中毒で死ぬのは、割合に苦痛の少ない方法です。あらゆる要素を考慮《こうりよ》して、彼はこの方法を選んだのでしょう。  これが私のこの事件に対する、第三の解答なのです」  倉持氏の手は今は抑《おさ》え切れずに細かくわななき、その顔にはいつの間にか、灰色の暗影《あんえい》が一面に拡《ひろ》がっていた。絞《しぼ》り出すような悲痛な声で彼は低く低く呟《つぶや》いた。 「一体あなたはどなたなのですか。あなたの第三の解答は、何を根拠《こんきよ》として組み立てられたのです……」 「私は中国の戦線で、偶然《ぐうぜん》横井氏の弟にめぐりあったのです。彼は私を嘲笑《ちようしよう》するように、その第二の解答を浴びせかけてきました。私は幾度《いくど》か悩《なや》みつづけました。そして遂《つい》に、第三の解答に到達《とうたつ》したのです……  その後ある機会に、彼の生死は私の手中に委《ゆだ》ねられました。彼は永久に部隊に帰ってこなかったのです。  あなたも今こそ私の名がお分かりでしょう。私は野口兼二なのです。悦子は私の永久に忘れ得ない初恋《はつこい》の相手でした。私は恋人《こいびと》のために無実の殺人罪を雪《そそ》ぎたいのです。そのために私は、ポーの『盗《ぬす》まれた手紙』を利用してあなたにこの事件を思い出させました。あなたは私の第三の解答を打ち破る、第四の解答を持っておられますか。罪なき女を石で打ったあなたの責任はどうなるのでしょう」  その瞬間《しゆんかん》、彼は物も言えずに立ち上がった。そして首を深く垂《た》れ、何か独り言をつぶやきながら、湖水の彼方《かなた》へと立ち去って行った。  私の右手はいつの間にかポケットの中の拳銃《けんじゆう》を握《にぎ》りしめていた。だがその手は、いつまでもポケットから出なかった。  忘れ得ない彼女の恨《うら》みを晴らそうと、私は彼の跡《あと》を追って、この山の温泉場へ訪《おとず》れて来たのだった。彼が私の解答に反撃《はんげき》してきたならば、私の指はその場で拳銃の引き金をひいておったろう。そうして彼の肉体は、永遠に地獄《じごく》の硫黄《いおう》の中に眠《ねむ》りつづけることになっていたであろう。  だが私は第三の解答を物語っている間にも、やはり一種の不安を抑《おさ》えることは出来なかった。私の第三の解答も、所詮《しよせん》人間の考え出した解答の一つに過ぎないのだ。倉持氏には第四の解答が準備されていなかった。だが神の手には——第四、第五の解答が用意されていないとはどうしていえよう。  私は鬼《おに》ではなかった。人を裁くのは決して人ではない。人を裁き得るのはただ神だけなのだ。  私はポケットから取り出した拳銃《けんじゆう》を、湖水の中へ投げこんだ。波紋《はもん》が静かな湖水の表面を、どこまでも拡《ひろ》がって行くのだった。いつの間にか灰色に曇《くも》っていた空には、雷鳴が響《ひび》きわたり、一陣《いちじん》の風とともに白い雨脚《あまあし》が湖水の表面に飛沫《しぶき》を上げた。そして、その飛沫の作り出した霧《きり》の幻《まぼろし》の中に、私には嘗《か》つての恋人《こいびと》、悦子の微笑《びしよう》が浮《う》かび上がったように思われたのだった。  五つの連作解答編   その一——「殺人パララックス」の解決  翌日の午後、加瀬警部は捜査《そうさ》本部の調べ室で米沢泰二と相対していた。  不安そうに、太った体をゆすっている泰二の眼《め》を見つめて、警部は鋭《するど》く切りこんだ。 「単刀直入に申しましょう。あなたは地位を悪用して、会社の金をごまかした。それを最近、哲雄さんに発見され、困った立場に追いこまれた。私は今朝《けさ》、哲雄さんにあって、この事実を確認して来たのですがね」  泰二の顔は紫色《むらさきいろ》になったが、それでも言葉はふてぶてしく、 「いや、それにはかなりの誤解があります。またかりに、百歩をゆずって、私に横領の容疑があったとしても、それが今度の殺人事件と何かの関係があるというのですか。はははは、私は何もかかわりのない男を殺すほど、血に狂《くる》ってはいませんよ」 「それがいわゆるパララックスの現象ですな。あなたはたしかに牧野という人物も知らなかったでしょうし、殺人の意図もなかったでしょう。ただ、あなたは彼を、哲雄さんと間違《まちが》えて殺してしまったのです」 「…………」 「これから帰る——という哲雄さんの電話を耳にして、あなたは庭で待ち伏せした。ところが、彼は喫茶店《きつさてん》へよったために遅《おそ》くなり、偶然《ぐうぜん》そこへ牧野健がふらりとやって来た。暗くはあるし、哲雄さんと牧野は二人とも中肉中背、後ろ姿だけでは見わけがつかず、あなたは哲雄さんと間違えて、後ろから刺《さ》し殺したのです。接近して視野の狂《くる》い——パララックスという現象は、カメラだけではなく、殺人にもおこるのですね。哲雄さんさえ殺したなら、まだ学生で、しかも女の裕子さんのほうは何とでもごまかせると思ったのでしょう」 「嘘《うそ》だ。でたらめだ! あてずっぽうだ!」 「そういうことはありません。あなたは太っているし、信也さんは大男、裕子さんは女、牧野と間違えられるのは哲雄さんだけ、そして彼を殺す動機を持っているのはあなただけ——それから今日、哲雄さんの了解《りようかい》を得て家宅|捜査《そうさ》をしましたが、ハンカチにくるんだ凶器《きようき》のナイフが見つかりました。被害者《ひがいしや》の血と犯人の汗《あせ》と、それから髪《かみ》の毛が一本……科学|鑑識《かんしき》のおかげで……」  泰二はそこでがくりと首をたれた。 (解答数一万三千八百九十六通中、正解は九千九十通)   その二——「死人は筆を選ぶ」の解決  その翌日の午後、加瀬警部は松尾牧子を警視庁へ呼び出した。 「奥《おく》さん、先生を殺したのは、助手の木下正直でした。彼は一切を告白しました。私は、先生が最後までプラチナ万年筆に執着《しゆうちやく》しておられたところから、犯人の正体を見やぶったのです」  牧子の顔は能面《のうめん》のようにこわばっていたが、警部はさらにきびしい表情で、 「先生は英文学者ですから、研究室では、みんなを英語のあだ名で呼ぶ習慣があったようですね。たとえば井沼波子さんはミス・リップル。木下正直はミスター・オネスト——この意味は説明しなくてもおわかりでしょう」 「…………」 「最後のメモに残っている『二』という字もかたかなの『キ』の書きかけだったのです。キノシタ——と書きはじめたところで、先生は力つきて絶命されたのです」  牧子の顔には、全然血の気がなかった。 「もちろん、法律的には、あなたはこの事件とは無関係です。ただ、彼を、一人の有為《ゆうい》な青年を、殺人の大罪へ追いやったのは、あなたにも全然罪がないとはいい切れないのです」 「わたくしが、何を……」 「彼は一切を告白しました。ことごとに反目している節子さんへのいやがらせか、ほんのつまみ食いのつもりか、あなたは彼とよろめいた。彼は誘惑《ゆうわく》に負け、身の破滅《はめつ》をまねきました。先生にこの関係がばれた時、彼は学者としての将来も、恋人《こいびと》も失う羽目におちいったのです。彼は涙《なみだ》ながらに、先生に許しを乞《こ》いに行ったが、聞いて下さらなかったので、半|狂乱《きようらん》になって刺《さ》した——といっています。火遊びは、たとえマッチ一本のつもりでも、とんだ大火になることがあるものですよ」 (解答数一万一千七百八十一通中、正解は二千三百六十七通)   その三——「時計はウソ発見機」の解決 「わかりませんな……あのウォルサムが、あの時計がウソ発見機の役割を果たしたというのはどういう意味ですか?」  横山部長刑事が頭をかいてたずねると、加瀬警部はデスクの上に身をのり出して、 「いいかね、君はあの時計をとりあげて、何気なく竜頭《りゆうず》をまわし、ほとんどいっぱいにねじがまいてあるといったろう……それはどういうことを意味するかね?」 「どうって——ああ、わかりかけて来ました。ねじをまいて、まだ間がなかったということになりますね」 「そうだろう。だからもし松崎武則がいうように、十時か十時半ごろ、大賀耕治が寝《ね》こんでしまっていたら、寝る直前に時計のねじを巻いたとしても、ゼンマイはもっとゆるんでいたんじゃないか。つまり、被害者《ひがいしや》は明け方四時ごろ、殺される直前ぐらいに、時計のねじをまいたということになるんじゃないか」 「それでは一度目をさまして?」 「そういうことはあるまいな。たいていの人間は、寝る前に時計のねじをまく。自動巻きでないかぎりはね……おそらく彼は、神戸の本社からの報告になやまされて、なかなか寝つけなかったんじゃないのかな」 「なるほど、そう考えると、松崎武則はウソをついていた——つまり犯人ということになりますか。でも、彼はなぜ、そういう無意味なウソをついて自分の墓穴を掘《ほ》ったのでしょう」 「犯人の心理というのはそんなものだよ。自分が殺しを計画している晩、ねらいをつけた相手がなかなか寝ようとしない。彼は自分でも部屋《へや》の電灯が消えるのをいらいらしながら待っていたのだ……自分の犯行をかくすために、思わず逆のことをしゃべる心理はわかるだろう?」 「わかります。でも、殺人の動機は?」 「彼は古い型の相場師だ。最近の経済の感覚にあわなくて、大穴をあけたんじゃないのかな? それを自分の失敗とすなおにうけとらず、もう少し資金が自由になれば成功できると思いこみ、一つにはその失敗をかくすため、一つには奥さんを口説《くど》いて次の勝負をはじめるために、殺意をおこしたんじゃないのかな。まあこの推理はおそらく当たらずといえども遠からずというところだろうよ」 (解答数九千三百二十三通中、正解は千四百七十二通)   その四——「苦労性な犯人」の解決 「殺し方が、ひどく念入りなものだから、苦労性な犯人だといって笑ったが、犯人のこの性格は、やはり事件の全体に反映しているようだね」  加瀬警部は、タバコに火をつけながら、横山|刑事《けいじ》に説明をはじめた。 「殺しの手口から見て、豊治は除外できるだろう。ああいう連中は、こんな念入りなまねはしない。にせ電話の細工などしそうもないし、セールス・マンを呼び出す必要もない」 「警部|殿《どの》、問題はそこですよ。山崎へかかってきた電話が、本当かにせかはべつとして、なぜ、セールス・マンのほうを?」 「まあ、待て。順を追って説明するよ。被害者《ひがいしや》は、ミシンかけの最中に殺されたという点を考えると、山崎実は犯人とは考えられないな。女というものは、愛情の冷えた夫より、惚《ほ》れている恋人《こいびと》のほうに、ずっと女らしくなるものだよ。せっかく、男がやって来たのに、ミシンをかけながら、話をするような、世帯じみたまねは考えられん」 「なるほど、それでは犯人は亭主《ていしゆ》……」 「早まっちゃいけない。そこでいよいよ問題の点だが、この犯人の手口から見て、山崎へかかってきたのも、にせ電話ではないのかな。そうなると、彼は擬似犯人として呼び出されたことになるが、矢島道夫は、ぜんぜんべつの理由でよび出された。犯人は、彼といっしょに、もう一度、現場へはいりたかったのだ」 「現場へはいる? 何のためです……」 「それが、犯人の苦労性なところなのさ。自分が犯罪の現場へはいったということが、自分にはわからない何かの科学検査で証明されてはまずいと心配したのだね。たとえ、そういう場合でも、自分が発見者として、現場へふみこんでいたら、その点は何とか弁解できるじゃないか」 「では犯人は木浦綾子……」 「そうだ。ライターを盗《ぬす》む機会もあった。関係者も全部知っていた。女同士のことだから、被害者《ひがいしや》もミシンをふみながら、気がるに応待していたか、それともミシンのかけ方で、何かわからないところがあるといって、教えてもらおうとしたのか。それに……」 「それに何です?」 「女のハンドバッグは、恰好《かつこう》の凶器《きようき》入れだよ。それから、笠井|晃《あきら》が犯人を察していたとしても、僕《ぼく》はちっともおどろかないね」 (解答数八千七百十三通中、正解は三千九百六十二通)   その五——「自動車収集|狂《きよう》」の解決 「わかりませんね……当日の天候は、誰《だれ》に対しても平等だったでしょうし、あのダスター・コートの持ち主はわかりませんし、例の肘《ひじ》のところについていた泥《どろ》のはねが、何か重大な手がかりになるというのですか」  横山部長刑事は、まだ首をひねっていた。 「そこだよ。横山君、返り血の点から判断しただけでも、あのコートが犯人のものだということは間違《まちが》いないだろうが、そのコートの肘の部分にだけ、泥がはね上がっているというのは、犯人が車に乗っていたためだとは解釈できないかね」  加瀬警部は、ゆっくりタバコに火をつけながらいった。 「しかし、車に乗っていたなら、どうして肘《ひじ》にはねが……あっ、わかりました。事件の当夜は、珍《めずら》しいくらいの暖かさでしたから、車の窓が開いていたから……」 「その通りだ。雨上がりの道路で、車を運転していたら、何かの拍子《ひようし》で、泥《どろ》をあびることはそんなに珍しくないよ。実際、運転手でも、窓わくに肘をかけて、車を走らせているのがときどきいるだろう」 「ただ、それにしても、車を持っているのは三人で、その中の収集|狂《きよう》は一人だけ、金子進ですから、彼が犯人だということに……」 「いや、違《ちが》う。横山君、泥のはねがついたのは、右だったかね、左だったかね」 「左でした……ああ、そうでしたか。どうしてそんな、かんたんなことに!」  横山刑事は、やっとそこに気がついたらしく、歯ぎしりしていた。 「君もやはりそういいたくなるだろう。国産車の運転席は、進行方向にむかって右についているけれども、アメリカはじめ、大部分の外車の運転席は、左側についているね。だから、左肘にだけ泥がついていたということは、外車を運転していた証拠《しようこ》になるんじゃないか。田原修治の車は国産車のスバル、金子進は国産ポンコツ、外車のフォードを運転していたのは倉石義道——彼が吉岡茂殺しの犯人なんだ」 「それでは、彼がスバルの模型を盗《ぬす》んだのはなぜだったのでしょう?」 「もちろん、嫌疑《けんぎ》を三人の収集|狂《きよう》のほうへ向けるためだったろうね。考えてみれば、本当の収集狂なら、証拠《しようこ》になるようなあの模型を現場へほうり出しておくわけはないじゃないか。大きさからいっても、かくしきれないものじゃないしね……犯行の動機は、君のいうコンプレックス説で十分じゃないのかな」 (解答数六千四百五十一通中、正解は三千七百九十通) 角川文庫『幽霊西へ行く』昭和61年11月10日初版発行